もっともっと「さがしていた丘」
彼女が見つめていたのは、丘の上の小さな白い家でした。それはごく普通の、どこの田舎にもある家でした。何事もなければ、むしろ見逃していたでしょう。確かに人家に出会えて嬉しくはありました。何せ早朝から誰にも会えず、不安に耐えてきたのですから。
でも驚いたのは他の理由がありました。その家に見覚えがあったからです。それは夢で見た家にそっくりでした。決して見間違うはずがありません、何度も繰り返して見た夢でしたから。
ゆっくりと車を進めてゆくと、やがて街道とほぼ直角に交わる小道がありました。右手を見ると、小川に3本の丸太を渡しただけの小さな橋がかかっています。そしてその小道の先は遠く、オークの森へと消えて行く様です。反対側の左手を振り返ると、小道は丘の上へと続いていました。それは始め急な上り坂になっていて、斜面 を右斜めに上がるようになっていました。そして徐々に緩やかになって、まっすぐ丘の上へと続く様です。小道の行き着く先には、まぎれもなく見覚えのある小さな白い家が建っていました。しかもその家の周りに花壇があって、たくさんの花が咲いているのが見て取れました。それも夢と全く同じ光景です。
小道との交差点近く、左側に車が二台ほど停められそうな草地がありました。その草地にレンタカーを乗り入れると、彼女はエンジンを止めて車から降りました。そして丘の上へと小道を登ってゆきました。小道がまっすぐになるあたりで立ち止まると、何度も何度も確かめるように、丘の上の白い家と、反対側の森の方とを見比べるのでした。
彼女は改めて今立っている場所が、まぎれもなく子供の時の夢で見た場所に間違いないと確信しました。しかし、丘を取り巻く街道だけは見た記憶がありません。確かに彼女が立っている所からは、草むらに視界を遮られています。でも全く見えないわけではありません。現に今も視界の右から左へと、白い線が大きなカーブを描いています。丘の麓に停めたレンタカーも上半分が見えていました。
でも、ふとあることに気づきました。これが子供の背丈だと、見える範囲が異なることに思い当たったのです。なので彼女は、自分の視線が子供の目の高さになるように腰を落としてみました。すると街道は完全に視界から消えました。車の屋根さえ草むらに隠れてしまいます。この事実に思わず、考え込んでしまいました。あれは夢だったはずです。なのに今ここにこうしていると、妙に現実味を帯びてくるのです。
しばらく彼女は、もの思いに沈んでいましたが、やがて意を決して、夢の中でいつもそうしていた様に丘の上へと向かいました。ところが彼女の脳裏に、今は忘れかかっていたホテルマンとの会話がよぎりました。
(本当に、悪い精霊がいたとしたら……?)
そこから、ひとつの疑念が浮かびました。
(自分は道に迷ったのではなく、何ものかに誘われてここへ来てしまったのでは……?)
それが事実だったら、なんとも恐ろしいことです。ところが不思議なことに、彼女にある想いが湧き起こりました。それは純粋な好奇心でした。ぞっとしながらも、何故か大事な事が待っていると確信している自分がいるのです。
こうした矛盾から来るためらいは、いっそう彼女の足取りを慎重なものにしました。丘の上に歩きながらも、家の様子に細かく目配りしました。何処かに怪しい者が隠れていないか、恐ろしげな事が起きてはいないかと、注意深く周囲の様子をうかがいました。
しかし彼女を取り囲んでいたのは、相も変わらず穏やかな、草原の光景だけでした。彼女の不安とは裏腹に、丘の上にはどこまでも明るい青空が広がっていました。そしてかなり西に傾いたとは言え、今もさんさんと暖かな陽光が降り注いでいたのです。家の周囲の花壇には、色とりどりの花々が元気良く咲き乱れています。遠くから穏やかな風に乗せて、ヒバリのさえずりが聞こえていました。
やがて緊張したわりに、あっけないほど簡単に家の入り口まで来てしまいました。そおっと戸口に近づいて声をかけてみましが、中から人が現れる気配はありません。しばらく周囲の様子をうかがっていましたが、やがて彼女はためらいがちに入り口のドアに手をかけました。ドアの取っ手をそっと引くと鍵はかかっていませんでした。ちょとだけ罪の意識はありましたが、自分の好奇心には逆らうことが出来ません。おそるおそるドアを開けてみました。
ぎいっときしんだドアの音にちょっと驚きましたが、誰も出てくる気配はありません。家の中からは、湿った冷気が流れ出てきました。暗がりに目が慣れるのに少し時間がかかりましたが、やがてそうっと家の中に足を踏み入れました。ところが二三歩部屋の中に入った所で、全く動けなくなってしまいました。と言いますのも、インテリアにも見覚えがあったからです。
クラシックな柄の壁紙、簡素な家具やカーテン。左手壁の煉瓦の暖炉。その両脇に二つ、凝った花模様のランプ。そして奧の壁に置いてある、古びたアップライトピアノ。頑丈そうな窓辺のロッキングチェアー。何もかもが、夢のままではありませんか!
「これは、一体どういうこと……?」
誰に言う訳でもなく、ふっとこぼれ落ちた言葉です。次々と湧き起こる疑問に、もはや他人の住まいに侵入したという罪の意識はすでに遠のいていました。様子をもっと知りたくて、彼女はさらに部屋の奥に足を一歩進めました。
戸口から見て、部屋の右側にも部屋がありました。夢ではいつもドアが閉まっていて、こちらの部屋の記憶はありません。なのに今日はドアが大きく開かれ、広いテーブルが置いてあるのが見えます。彼女は思わずその部屋へ足を踏み入れました。どうやらダイニングキッチンらしく、シンプルな調理道具とオーブンやレンジがありました。
ところが、良く磨かれた大きなテーブルに手を触れた時のことでした。
全く予想しなかった事が起きたのです。
後ろからいきなり、何者かが声をかけました。
「おや、いらっしゃい!」
その声に彼女は、飛び上がるほどに驚きました。なので思わず小さく悲鳴を上げたほどです。でもその悲鳴は、それまでの静寂と比べ、けたたましく鳴り響いた鐘の様でした。
ドキドキしながら振り返ると、戸口にひとりの老人が立っています。これまで、どこに隠れていたのでしょう? それにしても、彼女はもっと慎重になるべきでした。自分のうかつさと、この後何が起こるのかわからない恐怖で、頭からは血の気が引いて行きました。
彼女は、すっかりあわてました。急いでここから逃げようかとも思いました。でも入り口は、忽然と現れた老人が塞いで立っています。もはや絶体絶命の状態でした。なのでとりあえず、他人の家に勝手に侵入した非礼をわびました。それはもう自分でも何を言っているのか解らない程のしどろもどろぶりでした。心臓が激しく波打って飛び出さんばかりです。
ところが彼女のあわてた様子を見て、むしろ老人の方が驚いたようです。
「ああ、こ、これは失礼いたしました。すっかり驚かせてしまったようですな。
「あの、い、いやその、私は、この家の管理人ですから、どうかお気遣い無く」
どうやらこの老人は住人ではありません。そして 彼女を侵入者として、とがめる様子も無さそうでした。老人の目には、怒りなどは感じられません。気を取り直してよく見ると、小柄でひょろりた痩せたおじいさんでした。その手に鍔の広い麦わら帽子を抱えていて、いかにも働き者らしい使い古した農作業着を着込んでいます。
老人は続けて言いました。
「あのですな、そのう……用が済み次第すぐに行きますので、どうかお気遣いなさらず、そのままごゆっくりなさってくだされ」
その言葉に、彼女はまたまた混乱してしまいました。 侵入者である自分に何を言ってるのだろうと思いました。なので、かえって疑問と不安が噴出しました。
(ごゆっくりですって!? ここに私が居てもいいの?)
(何故、勝手に家に入った私を怒らないの?)
(この人が、管理人ですって? ではそもそも、この家は誰の住まいなの?)
そんな疑問がいっぺんにあふれ出て、ますます頭の中はこんがらがってしまいます。なのに、まったく気にする風もなく、自分のことを「管理人」と名乗った老人は、おっとりと家の中に入って来ました。彼女はあわてて横に飛び退きました。しかし老人の目的は、部屋の片隅に置いてあった掃除用具を戸棚の中に仕舞うだけでした。やがて、気の良さそうな笑顔を浮かべて軽く会釈をすると、そのまま戸口へ立ち去ろうとします。
これを見て彼女は、思わず老人の背中を呼び止めました。
「あ、あのっ、すみません。」
老人が、ゆっくりと振り返りました。
「はい、何でございましょう?」
脳裏にあふれんばかりの疑問の中から、彼女はやっとの思いで最大の疑問を選びました
「あの、この家は、どなたのお住まいなんですか?」
すると老人は、驚いたように目を大きく見開き、やがて笑い始めました。
「わっはっは、なにをおっしゃいますやら! 年寄りをからかうもんじゃあありませんや。この家はずっと前から、あなた様の家ではないですか!」
老人の言葉の意味が、一瞬、彼女には理解できませんでした。つとめて冷静に振る舞おうとしましたが、とうとうこらえきれず、堰を切った様にこれまでのいきさつを話し始めました。
「そんなはずはありません。わたしがこの家に来たのは、今日始めてなんです。それに私は、道に迷ってここに来たんです。ですからこの家の持ち主が私なんて、きっとどなたかと勘違いしてらっしゃるんじゃいないかと……」
その様子に老人は、あきれた様に首を左右に振ってみせました。そして彼女の言葉を途中で遮るように、この様に答えたのです。
「あのですな、え〜と、あなた様はお子さまの時分から、こちらのお宅へ何度もおいでになっていらっしゃいますよ。そりゃもう永いことになりますので、間違えようもございませんや」
その言葉には優しさがこもっていましたが、しかし、年寄りに似合わずきっぱりとした口調でした。老人はさらに、優しく言い聞かせるように言葉を続けました。
「ただ、こちらへお越しになられるときは、いつも月夜の晩で夜遅くのことでした。ですから確かに、このような昼間にお出でになるのは珍しいことではありますな」
そして暖炉の方をふり返り、遠くを見るようにこう付け加えました。
「そうそう、お小さい時分からとてもピアノが上手でした。あなた様がおいでになるときは、いつもピアノの音が聞こえますので、遠くにいてもよくわかりましたよ。それにほら、よくそこの窓の所にお座りになって、ずっと外の様子をご覧になってたじゃありませんか」
老人は、まるで自分の子供か孫の思い出話を語るように優しげでした。そして彼女を見つめ、こう締めくくりました。
「お帰りなさいませ。よく戻られましたね」
予期せぬ言葉に、彼女は深く心を動かされました。そんな暖かな言葉をかけられたのは、いつ以来のことだったでしょう。でも、それにお礼を言うべきかどうかもわかりません。
やがて老人は何か思い出したように、あわてて戸口に向かいました。
「おっといけません、これは長居をいたしました。私は他に仕事がございますので、失礼させていただきますよ。どうぞ今夜は、ごゆっくりなさっていってくだされ」
そう言って一礼すると老人は、戸口に置いてあった道具箱を抱えて、戸口から出て行ってしまいました。結局彼女は、ただ無言で見送っただけでした。
老人が立ち去った後、彼女はしばらく立ちつくしていました。頭は混乱するばかりで、今起きていることを理解できません。やがてよろめくように暖炉の側に行きました。でもここだけが夢とは違いました。暖炉には、彼女を暖めてくれる火はありませんでした。それを見て、いっそう寒気を覚えました。
なので暖炉を離れ、夢の中でいつもそうしていたように、窓辺のロッキングチェアに腰をおろしました。ところが夢の記憶と形は同じでも、座り心地がずいぶん違いました。記憶でこのロッキングチェアは、自分には大きすぎて重い印象でした。なのに改めて座ってみると、驚いたことに、今の彼女にぴったりだったのです。ロッキングチェアーには、まだ日だまりの温もりが残っていました。窓辺の床にも、まだほんのりと昼間の太陽の熱が残っています。そのぬくもりが、家全体を柔らかく暖めているようでした。
彼女は疑問や不安を押し出すように、ひとつ大きくため息をはき出しました。そして昔と同じように深く椅子に寄りかかり、窓の外を見やりました。そこには夢で見たとおり、大好きな光景が広がっています。たった一つ違うのは、今が昼だと言うことです。
西の空には太陽が落ちてゆきつつありました。今日という素晴らしい一日を惜しむかのように、徐々に赤みを増す穏やかな光が草原にあふれていました。窓辺の花壇にも大小の花が輝いています。どこか遠くで牧羊犬が吠えるのが聞こえ、はるか遠くの森で数羽の鳥が飛び立つのが見えました。
彼女は、窓辺に置いてある小さな容器に気づきました。手のひらに収まるほどの大きさで、シンプルな青い絵が描かれた、中国風の可愛らしい白磁の壺です。そっと蓋を開けると、この草原の空を写し取ったような鮮やかなパープル色が一杯につまっていました。するとレースのカーテンを揺らし、風に乗ってふうわりとやさしい香りが沸き立ちました。
(ああ、この香りは……そうだ!)
ようやく気付きました。夢の中で何度も嗅いだ懐かしい香りです。それはラベンダーでした。
次第に淡い紫色が部屋を満たしてゆきます。時間が止まったように、うっとりする世界が彼女を優しくつつんでいました。今はロンドンの暮らしが、とても遠い世界に感じられます。 少し眠気を覚えながら、彼女はふとこんな疑問を感じるのでした。
これはいつもの夢?
それとも……実は、あちらの生活が夢だったの?
……いえ、私は本当に……自分の家に帰ってきたのかも。
……だとしたら……この家では……どんな夢を見るのかしら?
さてこの後、この女性はどうなったでしょう?
でもその話は、いずれまたの機会に。
この話は昔、TV番組「ベストヒットUSA」*注)にゲスト出演した、エンヤが語った話を元にしています。なので当初このお話のタイトルは「エンヤ幻想」となっていました。彼女は番組で、当時大ベストセラーとなった「オリノコフロウ」と、アルバム「ウオーターマーク」について話をしていました。その中でも特に強い印象を残したエピソードがあって、今でもはっきりと覚えています。それは「イブニング・フォールズ(evening falls)」と言う曲についてでした。この曲は、ビデオの「ムーン・シャドウズ」にも収録されていて、幻想的な雰囲気をモノトーン画面 で上手く表現しています。
僕はエンヤの曲はどれも大好きなんですが、特にこの「イブニング・フォールズ」には、何か魂をぐいぐいと根っこから揺さぶられるような感動を覚えます。それは時に、私たちが忘れてしまった遙か遙か遠い「古の森(いにしえのもり)」からの呼び声の様に感じられるのです。
実は上記の話は、記憶の曖昧なディティールをかなりふくらませています。なので「イブニング・フォールズ」の由来となった話とは、ずいぶん違っています。オリジナルの話はもっとシンプルで、おおむねこんな内容。
ある英国女性が旅をしていた。とある街で、女の幽霊が出る家の噂を聞く。たまたま近くを通りかかったので、その幽霊屋敷に立ち寄ってみた。それは想像したよりずっと小さな家だったが、中に入ってあることに気づく。 |
*注)ベストヒットUSA: |
1999年5月:記
2000年6月:追記
2002年3月:追記
2006年1月:加筆
2008年5月:修正
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