もっともっと「さがしていた丘」

エンヤ幻想イメージ画

月光の家(上) :旅立ち

 このお話は、英国のある女性の体験がもとになっています。この話を聞かせてくれたときは、丁度三十歳になったばかり。既に結婚していて子供はまだいないけれど、仕事もばりばりにこなす人でした。どちらかと言えば活発で、めいっぱい頑張ってしまうタイプだったようです。

 さて彼女は、子供の頃から何度も幻想的な夢を見ていました。それはあまりに鮮明で、しかも同じ様な場面が出てくるので、いつも不思議に思っていたそうです。

 その夢とは……

 ……ふと気が付くと、いつもと同じ、広い草原の中に立っています。

 空を見上げると、これまたいつも同じ美しい月がかかっていました。心地よい風が吹く度に、月の光を受けて草原が銀色に波打っています。自分が立っているその傍らには、一本の小道がありました。その小道は、右手遠くに見える黒々とした森から、反対側、左手の小高い丘へとまっすぐに続いています。

 いつもそうしていた様に、道をたどって丘の上へと歩いて行くと、丘の頂上には白い小さな家が建っています。その家の周りには、手入れの行き届いたきれいな花壇がありました。色とりどりに大小たくさんの花が咲き乱れ、月の光に妖しく輝いていました。なんだかとても、心ひかれてその家に入ってみると……。

 中には、誰も居ません。

 こざっぱりとした部屋に椅子やテーブルなど、とても控えめに家具や調度品が置かれています。戸口から見て、左の壁には暖炉があります。暖炉には、とろとろと赤く薪が燃えて部屋を暖めていました。その暖炉の両側に、凝った花模様のランプが二つ、壁に掛けられています。ランプは、ちろちろと暖かな光を部屋の中に投げかけていました。
 家の中の調度品はすべて、質素で趣味の良いものでしたが、壁紙やカーテンの柄を見ても、どこなく古風に見えました。そして彼女はここに来るといつも、過去にこんな家には住んだことがないのに、ずっと前からよく知っているような、なつかしい感じがするのでした。

 入り口から見て奥の壁に、古めかしいピアノが置いてあります。彼女はときどきそれを弾いたりしました。でも一番のお気に入りは、窓辺のロッキングチェアに腰掛けて花壇や遠くの森など、外の景色をながめることでした。
 不思議なことに夜にも関わらず、いつも月の光に照らされて、真昼のように遠くまでくっきりと見わたせました。耳をすますと草原のどこかでナイチンゲールが鳴いて、風がさらさらとレースのカーテンを揺らして入ってきます。風が吹き抜けると、ふわりと花の香りが漂うのでした。

「この香り、何の花かしら……?」

 ゆらゆらと、ロッキングチェアを揺らしながらそんなことを考えているうちに、いつしか夢から覚めるのでした。

 不思議な夢でしたが、恐怖感は全くありませんでした。むしろこの夢を見た時は何故かいつも、それまで抱えていたいろんな不安が消えて、太陽の光をいっぱいに浴びた後のように体がぽかぽかと暖かくなり、その後はぐっすりと眠れるのでした。
 しかし大人になり、結婚して仕事もこなす日々に追われるようになります。夜になると夢を見ることもなく、死んだようにぐったりと寝床に付く毎日でした。やがて子供の頃の美しい夢は、しだいに、記憶の奥底深く消えていったのです。

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 ある年のこと、彼女は夏の休暇を待たずに、思い切って仕事を止めました。公私ともにいろいろなことが重なり、精神的にすっかりまいってしまったのです。
 彼女の夫は優しい人で、旅に出ることを奨めてくれました。そこでスコットランド地方を尋ねることに決めました。子供の時から一度は行きたいと思っていた場所です。夫は心配して一緒に行くと言いましたが、それを断り、レンタカーを借りて自分で運転することに決めました。気の向くままに、誰に気遣うことのない一人旅をしてみたかったのです。

 こうして、朝に地図を見て行く先を決めるという、のんびりした旅が始まりました。それでも行く先々には、期待に違わぬ素晴らしい光景が待っていました。 初めて訪れたスコットランドに、彼女は深い感銘を受けました。

 ……はるか昔の伝説に彩られ、今は静かに眠る端正なたたずまいの古城。
 ……うち捨てられ、崩れ落ちそうな古城の石垣から見下ろす、神秘的な蒼みをたたえる湖。
 ……今も妖精が住むと言われる、鬱蒼としたオークの森に囲まれた泉。
 ……古代の暦と伝えれ、草原に点々と並ぶ巨大な岩石列柱とサークル。
 ……潮風が吹き抜ける荒涼とした崖っぷちに点在する、バイキングの集落跡。
 ……名もなき小さな教会の、古いケルト十字の墓碑に咲き乱れる真っ赤なバラ。
 ……可愛らしい家々の村で聞いた、お祭りのバグパイプの演奏 。
  ……などなど。

 こうして美しい史跡を巡るうちに、彼女は徐々に元気を取り戻していきました。そして とりわけ、自然を身近に触れることは、今とても大切に思えました。

 

 そんな旅の途中のことです。彼女は道に迷ってしまいました。朝にホテルを出発して、昼前にはロードマップと周囲の地形とが一致しなくなっていました。やはり濃霧の中を無理矢理走ったのが無謀だったようです。
 実はこの朝、ホテルをチェックアウトしようとしたところ、フロントの中年男性から忠告を受けました。霧が晴れるまで、出発を見合わせるようにと言われたのです。聞けばこのあたりの人々は、この地方特有の濃い霧の中をむやみに歩けば、悪さをする精霊に出合うと信じているようでした。でも彼女は軽く受け流しました。

「そんなこと、迷信でしょう?」

 しかし、ホテルマンは真剣でした。

「悪いことは申しません。過去何人もの旅人が、この地方では実際に消えているのです。彼らはみな、霧の妖精に連れて行かれたのです」

「まあ、恐ろしい! でも、もしそんな精霊がいるなら、是非会ってみたいわ」

 これにホテルマンは、あからさまに不愉快そうな顔をしました。確かに彼女の物言いは、彼の気遣いに対して不躾だったかも知れません。でも本当の事をいえば、早々にホテルを出発したかったのです。次の目的地にはもっともっと楽しい事が待っているように思え、この日彼女は早朝に目が覚めました。もちろん次の滞在予定地に、特に素晴らしい遺跡や建物があるというわけではありません。あるいは誰かと会う約束をしていた訳でもありません。まして時間に厳しいホテルに予約していたわけでもありません。ここまで心が急いたことは、これまでのんびりと旅を続けてきた彼女にしては珍しい事でした。

 そんなわけでレンタカーに荷物を積み込むと、朝食もそこそこにホテルを出発しました。既に太陽は昇っているはずの時刻でしたが、小さな町は未だ暗く陰鬱な闇に閉ざされておりました。家々の明かりや街灯が黄色くにじんでいます。予想以上に霧は濃く、20〜30メートル先も見えない状態でした。 でも彼女はホテルで、この霧はいずれ午前中に消えると聞いていました。それにどんなに視界が悪くても、地図を見ながら慎重に走れば大丈夫だろうと思いました。

 しかしその焦りは裏目となりました。いくら車を走らせても、最初の目的地の村に辿り着けません。もうお昼近いというのに、周囲は相変わらず濃い霧に包まれていました。フロントガラスの先にかろうじて見える街道は、ミルク色の草原に淡く消えています。この三時間あまり、出口のない草原を延々と巡っているように思えました。しかも今朝、町を出てからと言うもの全く他の車と出会いません。きっと何処かで道を間違えたのでしょう。
 ところが、誰かに道を聞こうにも、人一人見かけないのです。ふと、今朝のホテルのフロントマンとの会話を思い出しました。それは、余り気持ちの良いものではありませんでした。ホテルを出るとき彼は、彼女に見られぬように背を向けると、胸で小さく十字を切ったのです。彼女の不安は、どんどん大きくなってゆきました。

 しかし幸いなことに、それ以上事態が悪くなる事はありませんでした。ミルク色の空に時々、青空が現れるようになったからです。やがてお昼頃になると、雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせるようになりました。強烈な日差しが陰鬱な霧をさっと切り裂いたかと思うと、低く流れる雲がその光を足早にかき消してゆきます。それは白い闇と太陽の光が競い合うようでした。もうしばらく待つと、霧は完全に晴れそうです。彼女はレンタカーを道ばたに寄せて、晴れるのを待つことにしました。
 陽光をこれほど恋しく思ったことはありません。重苦しい霧の切れ間からまぶしい太陽が現われるのを、彼女は神妙に待っていました。車内に光が射し込む度に、大地の温もりが復活するのを感じます。その暖かさは怯えた心をも溶かすようでした。そしてそれに従って、ワクワクする気持ちも蘇るのでした。

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 それからどのくらい時間が過ぎたでしょう。彼女は、はっと目が覚めました。どうやら運転席に座ったまま、眠り込んでしまった様です。霧は既にほとんど消えていて、周囲の草原が見渡せるようになっておりました。まだ夢から覚めやらぬ心持ちで、ゆっくりとレンタカーから外に降りました。先ほどは気づきませんでしたが、車を止めていたのは丘の頂上でした。しかし周囲を見渡して、思わず小さく感嘆の声を上げました。何故なら霧が晴れると共に現れたのは、信じられないほどすばらしい光景だったからです。

 澄みわたった蒼穹の頂点から、太陽が見渡す限りきらきらと世界を照らしています。名残の霧は空高く、切れ切れに流れて行くようです。遙か遠くに目をやれば、頂に雪を残す山々には、白雲がベールの様にかかっていました。三つ四つ向こうの丘は、パッチワークの様に四角く緑の色味が違います。きっと麦畑と牧草地なのでしょう。手前の丘ではのんびりと羊が群れています。遺跡か羊囲いなのか、黒い石垣が丘を越えて延々と直線を描いています。その直線上には、崩れかけた城塞が見えていました。

 暖かな陽光の中、青々とした香りを乗せて風が草原を波打たせています。さわさわという音と共に、バッタも羽音をたてて跳び立つのでした。スコットランドにしては暖かく、ほんとうに気持ちの良い日でした。思わず体を伸ばし大きく腕を広げ、彼女はゆっくりと深呼吸をしました。清烈な新緑が肺を満たし、血液と共に全身を駆けめぐるのが感じられました。足下からも力強いエネルギーが伝わって来るのが感じられ、少し体がぴりぴりします。

  ふと彼女は、こんな格好を誰かに見られるとみっともないと思いました。そして周りをそっと見渡しました。しかし、こんな広大な草原のど真ん中、誰かが見ている訳がありません。ここはロンドンのハイドパークでは無いのです。そんなつまらないことを気にした自分が可笑しくなって、思わず笑い出してしまいました。
 これほど空と大地を近くに感じたことが、今まであったでしょうか? 太陽の光がこんなに暖かいことも、空気がこんなに美味しいことも、ずいぶん長いこと忘れていたような気がします。まるで草原の光を全部取り込むかのように、彼女は何度も何度も深呼吸をくり返しました。こうしていると、眠気によどんでいた気分も、しゃっきりと蘇ってゆくのでした。

 しかし徐々に頭が冴えてくると、道に迷っていたことも思い出しました。心地良い眺めに酔ってばかりはいられません。まだお昼過ぎですが、早々に今夜の宿を探す必要があります。こんな野原で野宿するのは得策と思えませんでした。いずれ選択の道は二つです。この街道を戻るかそれとも先に進むかでした。

 

 しばらく考え込むように軽く腕組みしていた彼女でしたが、突然、ホテルで用意してもらったサンドイッチを思い出しました。元気になったら、空腹を覚えたからです。なのでとりあえず、お昼を食べながら考えることに決めました。後部座席からレジャーマットとバスケットを取り出すと、近くの草むらに腰掛けました。
 昼食はとてもすばらしいものでした。バスケットの中身は、柔らかなローストチキンのサンドイッチでした。それに新鮮なフルーツがいくつか。ポットの紅茶はまだ熱々でした。これに加えて爽やかな風、まぶしい草原の太陽もまた、特別なご馳走でした。
 空腹を満たすことは、彼女の冒険心を、新たに強く蘇えらせる効果がありました。バスケットの中身をすべて平らげる頃には、決心はすっかり決まっていました。多少不安はありましたが、街道をこのまま先に進むことに決めたのです。そもそもこの道を戻っても、ホテルがあった街に戻れる保証はないのです。それより彼女は、この草原がすっかり気に入りました。地平線まで広がる緑の大地を見ていると、何だか気持ちが大らかになります。そうなるとむしろ引き返す方が、かえって惜しい気さえするのです。

 彼女は立ち上がって、周囲が見渡せる場所まで歩いて行きました。そしてまぶしい日差しに、思わず帽子の庇に手をあて、はるか遠くを見やりました。街道は丘陵地帯をほぼ東西に横切っているようです。どうやら彼女が来たのは西からでした。東の方を見やると、この丘から一つ向こうの大きな丘のふもとへと下って行くようです。そしてその丘をぐるっと回り込んで、またその先の丘を越えながら、またまた次の丘を回り込んでいます。それはまるで緑なす絨毯を、地平の果 てまで縫いとろうとする長大な白い糸でした。
 その白線を目で辿って行くと、はるか東の果てで黒々とした森に消えていました。黒い森は、なだらかな山の中腹に広がっています。視線を右に移すと、かすかに霞んで森の梢の上に、かろうじて細い尖塔が見えました。どこかの街の教会かも知れません。教会があれば町か村があるに違いありません。だとしたら道を聞くことも出来そうです。上手く行けば、今夜の宿も見つかるかも知れません。そう考えると安堵のため息が漏れました。

 レジャーマットを畳んで、バスケットと共にレンタカーの後部座席に放り込みました。そして運転席に収まるとエンジンをスタートさせ、最初は慎重にゆっくりと車を進めました。これ以上、道に迷いたくなかったからです。ところが何処まで行っても一本道の街道で、道を見失うはずもありませんでした。しだいに、はやる心に応えて車はスピードを上げて行きました。

  街道の両側に背高く茂る草むらは、駆け抜けるレンタカーに、細長い緑の葉を揺らして道を開けました。アクセルを踏み込む毎に、心地よい緑の風が車内をごうっと吹き抜けます。助手席に置いてある地図や、後ろの座席の荷物が風にあおられて、ばたばたと騒々しくはためきました。
 風をもっと感じたいと思い、彼女は車の窓を全開にしました。ところが、被っていた帽子も飛ばされそうになって、少しあわてました。なので車の速度を落として帽子を取ると、後ろの座席に放りました。そしてその後は、ごうごうと吹き抜ける風に、ウエーブのかかった明るい栗色の長い髪をなびかせて、いっそう車のスピードを上げてゆきました。

 なんだかそれは、この旅を始めて一番の心躍るドライブでした。街道は丘に沿って、右に左に大きくカーブしています。彼女は快調にレンタカーを操り、そうしたカーブをいくつも巧みに走り抜けました。丘を上ったり下りたりする度、そのアップダウンはジェットコースターのようで、ワクワクしました。そして丘陵地帯は、広く見渡せたり見えなくなったりしました。

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 やがて正面に、黒い森が見えて来ました。お昼には遙か遠くに見えていた森でしたが、夢中になって走るうちに着いてしまったようです。黒い森は徐々に、街道の右手から覆い被さるようになりました。近くで見ると、見たこともない巨大なオーク(楢)の森でした。緑陰が黒々と濃く、森の奥は暗く鬱蒼としています。
 彼女には何故か、この森が太古からここにある原生林だと分かりました。こうして車を走らせていても、その強烈な霊気がはっきりと伝わって来ます。彼女は少し寒気がして、身震いしました。そして早く森から離れたいと思いました。なんだか森に飲み込まれそうに感じたのです。
 でもそうした不安も、森の中からじっと見つめる二頭の鹿と目が会ったとき、次第に消えてゆきました。街道に大きく張り出したオークの枝を見上げると、三匹のリスが可愛らしく元気に、鬼ごっこをしています。そして草陰からウサギが飛び出して、ビックリすることもありました。この森には、多くの命が育まれているのです。何時しかやがて緊張も解け、笑顔がこぼれる様になりました。

 街道は森の外周を大きく取り巻いて、緩やかに右カーブしていました。そしてやがて森から流れ出る小川に沿って、窪地の谷間を走るようになりました。両側は次第に切り通しのような土手になり、見通しも悪くなり道の変化も乏しくなりました。広大な草原も森の外周部まで来ると、やっと終わりにさしかかっているようです。
 街道は徐々に直線になりました。道路の右下に小川が流れ、森とを隔てていました。水面は陽光を映して、キラキラと輝いています。その岸辺には黄色や白、青などの小さな花も咲いています。それは心和む光景でした。ところがまもなく進行方向に再び、黒々と霊気を放つオークの森が迫ってきました。それを避けるかのように街道は左カーブしながら、丘の麓を取り巻いています。暗く陰鬱な森を見るのが嫌だった彼女は、なるべく左だけを見るようにしました。こちらには相変わらず、のどかな丘陵が見えていました。

 フロントガラス越しに空を見上げると、どこまでも抜けるような青空が広がっています。まぶしく輝く太陽は、今はかなり西に傾きましたが、それでもなお地上にまんべんなく、暖かな光を降り注いでいました。車を走らせるコースが単純になった上、お気に入りの草原も終わりかけていることで彼女は、運転がだんだんつまらなく感じ始めていました。そのかわり車のスピードを落とし、周辺の様子に気を付けるようにしました。
 それにしても人家の気配は何処にもありません。他の車に出合うこともありませんでした。やはりお昼に思った通り、この先にあるはずの町か村まで行かねばならないようです。でもこの調子だったら、あと1〜2時間も走れば辿り着けるだろうと考えました。

 そんなときでした。彼女は何かが見えた気がして、無意識にブレーキに足をかけました。丘の上に一瞬だけ、人家が見えた気がしたのです。ところがその直後、彼女ははっと息をのみ、車を急停車させました。そこには、全く思いもかけなかった光景がありました。


<以下、続く>


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