もっと「さがしていた丘」

その1:さがし物は何ですか?


<2008年、補足>

 以下の記事は1999年に書いたものです。現在は状況が劇的に変わりました。なので一時は削除することも考えましたが、基本的な考えは変わっていないので、残すことにしました。
 この記事を書いた当時、フリーターとかニートとか言う言葉が流行り、定職に就かない若者への批判が集まっていました。実は当時から僕は、そんな世論にものすごく怒りを感じていました。何故なら日本の労働市場が、海外と比較して、あまりにアローアンス(許容範囲)が少ない社会だからです。例えばヨーロッパやアメリカでは、学生が休学してバックパック姿で海外旅行することが珍しくありません。危険をわきまえ、広く世界を知ることは、大人への一歩であるという認識が、社会全体に受け入れられているからです。日本の労働市場に見られる若年齢偏重主義が無いので、新卒で就職しないと条件が悪くなるなんて事はありません。また就職しても、一旦止めて大学に復学したり、あるいはNGOなどでボランティア活動をしても、それがキャリアとして認められます。
 しかし日本では、仕事を休んで他のことをやるなどもってのほかです。このことが、ボランティア活動や社会貢献を日本に根付かせない大きな要因になっています。日本はよく「国際貢献に金は出すが人は出さない」と言われます。当然のことです! 日本の雇用システムは、給与を与える代わり、労働者の全人格のみならず、個人の時間すら差し出すように求められます。このような労働環境では、個々人には社会貢献など考える余裕が無いのです。
 小泉政権時代、イラク紛争の際に「国際貢献」がさんざん話題になり、結局ネオコンの思惑で自衛隊を派遣しました。その是非はともかく、国内に湧き起こった「軍事以外の国際貢献を」という世論は、多くの賛同があったにもかかわらず、具体的なコンセンサスを創り上げることが出来ませんでした。これもまた日本人が、国や会社組織に頼らず民意で社会貢献する文化を持たないことが障害になっています。

 ところでイラク戦争当時、自己責任論が盛んに言われました。このとき、率先して自己責任を言い立てた人間を僕は許せません。何故ならその事によって、以後どれだけ多くのロストジェネレーションが苦境に陥ったか分からないからです。かつてのフリーター達が、どんどんワーキングプアーに陥って行くのを、一部政治家と企業経営者は、自己責任論を楯に正当化しました。現在日本には、年間三万人の自殺者がいると言われ、バブルが弾けてからの累積は、第二次大戦の犠牲者を超えると言われます。自己責任論者は、こうした現象の一端を担った責任があります。

 さて自分探しについては、下記を書いた当時、若者にはまだ余裕がありました。しかし今はもはや、それすら考えられない状況です。今の日本は、危機的状況にあります。産業の空洞化は食料の自給率を危機的なまでに低くし、日本の国土を荒廃させています。農業、林業、漁業共に後継者不足と言われる一方で、就職出来ない若者が都会にはあふれています。少子化社会と言われながら、母親を守る医療制度は限界。高齢化社会と言いながら、介護制度は崩壊しつつあります。若者達は自分の置かれた状況を、もっと堂々と社会に訴えるべきだと思います。そしてこういう時代だからこそ、それぞれに出来ることを真剣に模索する時代になったと思うのです。


<何をさがしているの?>

 現代は価値基準が多様化しています。のみならず長引く不況や理不尽な社会制度に、人々の怒りは募っています。そうした中、自分の価値を発揮出来る仕事や、心安らげる人との出会いへの渇望は、ますます大きくなっています。そのせいか「自分探し」が密かなブームと言われ、ずいぶん久しいです。まあ改めて文字に書くと、ものすごく気恥ずかしいけど。

ただ、そうした風潮に対し、厳しい意見があることも事実。

曰く「幾つになっても『自分さがし』などと言っているのは甘え」
曰く「仕事を探し、辛抱強く自立しようと言う気が無いから、夢みたいなことを言うのだ」
曰く「平和で豊かだから、そんなこと言ってられるのだ。要するに贅沢なんだよ!」
曰く「選り好みの挙げ句、果ては生活苦となっても、それは自己責任」等々。

 でも、本当にそうでしょうか?
 僕は、興味ある話題をシェアし合うことが好きです。でも年齢を重ねるに連れ、話題によっては慎重であるべきと思うようになりました。特に自分さがしは、話す人を選びます。普段優しく感受性の強い人だから解ってもらえると思ったのに、こうした話題の後、意外な反応に驚いたことが幾度となくありました。感受性が強ければこそ、ナーバスになってしまうのです。とりわけ困るのは頭ごなしに、自分さがしに否定的な人。時に軽蔑を越えて、憎悪さえ見せる人もいました。まあ別に人の考えは、好きずきなんですけどね。しかし反応が強いほど逆に、その人の「心の封印」を不用心に開けてしまった、自分の無神経さに落ち込みます。そして青臭い子供のように思え、将来に希望が持てなくなるのです。そんな後は、立ち直るのに本当に苦労します。
 誰しも、芭蕉西行山頭火のような漂白の詩人、俳人、歌人に憧れます。彼らの旅にロマンを感じる人も少なくありません。しかし、いざ身近にそんな人がいたら、概して否定的になります。基本的に、住処や身分の安定しない生活に対して、警戒本能が働くようです。


<マズローの欲求段階説>

 ここで思い出すのは、ある本との出会いです。もうずいぶん昔になりますが、ひどく落ち込んでいた時にそれを読んでほっとした記憶があります。実はこれを書くに当たって探したのですが、既に手元にありません。正確なタイトルも出版社も忘れてしまったので、記憶に頼って書くことをお許しください。それは心理学の本で、僕が目を留めたのはマズローと言う人が提唱した「人間の欲求段階説」でした。ちょっと難しい話になりますが、以下の様な内容です。 

マズローの欲求段階説
人間が生存するうえで、行動の動機づけとなる欲求・衝動は階層をなす。

第一段階

生理的欲求

摂食、排泄、睡眠など、基本的生存行動への欲求

第二段階

安全への欲求

常に安全で、保護されている環境を求める、生活の秩序への欲求

第三段階

所属と愛の欲求

家族や属する集団に居場所があり、他者から愛される、集団帰属への欲求

第四段階

承認欲求

属する集団から価値ある存在と認められ、尊敬を受けて自尊心が満たされる、認知の欲求

第五段階

自己実現

自己能力を広げ、より創造的で有意義な人生を目指す、成長への欲求

マズローに関する、詳しい説明はここをクリック

 実は初めこの学説を聞いたとき、あまり良い印象を受けませんでした。
 その第一の理由は、この話を聞いたきっかけが社員教育だったので、裏に何か不純なものを感じたからです。要するに「テメーら、やる気出せよ〜!」ってのが見え隠れして、嫌な印象がありました。理由の二つ目は、何となく人の貪欲さの証明に思えたからです。かくも人の欲望は果てしないのかと、うんざりしました。まあこれも、自分にはその様に感じる理由があったのだと思います。儒教のような禁欲的道徳観の下に育つと、こうした欲求分析そのものを下らないと見なす人間になりがちです。
 そしてさらにもう一つ、気に入らない第三の理由がありました。ずっと後になって気が付いた事ですが、この話を聞かされるときに必ず感じる、ある種の差別意識です。この「欲求の段階説」は、解釈によっては、人を成長段階によってランク分けしているようにも思えます。そして明らかに、その様に説明する講師もいました。例えば「食う、寝る、遊ぶなんて生活は猿と同じだ!」とか、「何時までも人から好かれることばかり気にしている連中は、まだまだ第三段階止まりだ!」とか、「人はすべからく、低レベルに留まること無く、上の段階に在ることが、即ち優秀さの証明である!」など。つまりある種、エリート至上主義を理論的に支えているようにも思えたのです。


<本当に価値のあることは?>

 ところがある日偶然、先ほどの心理学の本に出合いました。特にこのマズローの研究については、始めて詳しく知る事になりました。そしてこの時改めて、自分の思い違いに気づいたのです。まさしく「目からウロコが落ちた!」とでも言う感覚でした。
 その再認識の一つ目は、マズロー自身は段階毎に区分けした人の欲求を、どれも中立、ないしは肯定的に考えていたのを知った事でした。マズローは、こうした欲求がどのレベルであっても、決して否定的なものでは無く、それ自体が次のステップへのモチベーションとなり、より良く人が生きる為のエネルギーの根源だと捉えていました。 しかも基本欲求は、人がもともと生まれながらに持つものと見ていました。環境に恵まれたならば、人は自然とそれが得られる様に行動すると言うのです。
 ここのテーマに沿って言い換えれば、人は既に生まれたときから「さがす」事が運命づけられているとも言えます。生きるために食物や飲み物をさがし、安全のために着る物や暮らす所をさがし、愛し愛される為に仲間をさがし、人から認められるために自分の社会的意義をさがし、そしてさらに自分がもっと価値ある存在として生きる目的をさがす。つまり、何かを求めて「さがす」行動は、「良い」とか「ダメだ」とかの判断の範疇外にあるのです。その行動は「人間が生きようとする根源的な力」の証です。

「目からウロコ!」の二つ目は、マズローの欲求段解説は、人間をランク分けをするつもりなど、さらさら無かったこと。と言うより、同じ人であろうと置かれた状況によって、この段階がかなり変動するのです。ものすごく分かりやすい例で言えば、都会で社会的役割を果たしている立派な人が、ある日山で遭難したケースです。このとき彼が真っ先に考えることは、まず欲求の第二段階までが保証されることでしょう。つまり欲求区分は個人の範疇に於いて、自分が置かれている状況を客観的に評価する手段に過ぎないのです。

その本にはちゃんと、このようなコメントが付け加えてありました。

「成長要求は、個々人において全て同等の重要さをもつ。従ってこの欲求分類は、複数の人間的価値を、階層的に評価判断するものではない」

さらに最も「目からウロコ」だったのが、以下のマズローの考えでした。(但し下記は記憶に基づくもので、実際のマズローの記述と異なることをご了解下さい)

「人が、より上の段階に達していることは、その人が幸せな状態である上でとても意義のある事です。しかし一番大事なことは、常に上を目指し続けることです。達成している状態に価値があるのではなく、達成しようと努力し続ける行動にこそ、価値があるのです」

 これを読んで僕は、すごく勇気づけられた記憶があります。何かすごいことが出来たり、人のうらやむような暮らしをしているから偉いんじゃないんです。大事なことは、自分を高めるため何かを求め、常に歩き続ける事なのです。この時大げさなようですが、生まれて初めて自分を理解し、認めてくれる言葉に出合った気がしました。そして何かを探し続けられる環境にある自分は幸せだと、やっと思えました。 


 さて、多くの人が「自分さがし」に否定的になってしまう最大の要因は、しばしば、何らめぼしい成果を生み出さないままに終わってしまうからです。何故そうなるのでしょう?
次の、もっと「さがしていた丘」その2で、そのことを考えてみます。

1999年5月: 記
2001年8月:追記
2008年7月7日:修正


<この項、終わり>


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