もっと「さがしていた丘」その2

それでは、良い旅を!


<自分さがしの落とし穴>

 前章もっと「さがしていた丘」その1で、自分さがしについて語ることは、慎重になったと言いました。それは人によって向かない話題と言う理由もありますが、もう一つ留意点があるからです。自分さがしには大きな落とし穴があります。必至に「何か」を「探して」いるつもりでも、その努力が得る物の無い「袋小路」に入り込む可能性が高いのです
 何故そうなるのでしょう?   自分さがしに熱中する人が横着だったり、怠け者だったりするから? いえいえ! それは逆で、むしろ誠実で生真面な人が多いように感じます。実は最近、自分さがしは、人が身を守るため行っている本能的行為ではないかと感じて始めているのです。


<Somewhere over the Rainbow > 

 そもそも自分さがしには、他人との関わりが希薄なイメージがあります。視線が内向きである故に、自分の世界だけで全てを完結させてしまおうとする傾向があるのです。これは、誰のためにもなりません。何故ならば、人は他人との関わりにおいてしか、社会的地位を獲得出来ないからです。他人との関係を無視すると、かえって自分の居場所を見失う悪循環に陥ります。しかも、良好な人間関係から生まれるチャンスを、みすみす見逃すことにもなりかねません。えてして思い込みがちな、求める世界は遙か遠くにあるという考えは、しばしば間違っているのです。すべては、目の前の一歩から始まるのですから。
 「オズの魔法使い(The Wizard of OZ)」という童話があります。 このお話は1900年、アメリカの作家フランク・ボームよって書かれました。その後1939年には映画化もされ、大成功を納めています。 この映画で主人公を演じた少女ジュディ・ガーランドは、一躍人気女優となりました。彼女が歌った「虹の彼方に(Over tne Rainbow)」はこの映画で生まれた名曲です。主人公ドロシーは、物語の冒頭、毎日の退屈な生活にうんざりして、この曲を歌います。 彼女は、空にかかる虹の向こう、どこか遠くに自分の夢を叶える世界があると信じ、やがて旅立つ日が来ることを願いながら歌うのです。

♪〜Somewhere over the Rainbow ♪ (←この歌詞とその訳)


 ところで「オズの魔法使い」は、童話「青い鳥」と共通 点があります。それは、主人公達は共に旅の最後に、大きな気付きを得ることです。その気づきとは、求めていた幸福は、始めっから自分が育った家にあったという事実です。では、この物語の主人公達は、すごく無駄なことをしたのでしょうか? いいえ! むしろ、その事に気が付くためにこそ、長く危険な旅を体験する必要があったのです。ある意味、こうした気づきの旅こそが、自分さがしの原点とも言えるでしょう。……もっとも、そんな基本的なことすら、難しい時代になりました。複雑な家庭事情に育つ子供は増えていますから。


  <ホントにやる気があるの?>

 しかし何と言っても、自分さがしが有意義な結果を得にくい理由として、その行為がしばしば目標を曖昧にしている点にあります。 見たことも聞いたこともないけど、理想のパラダイスが何処かに在ったとします。しかしそんなところへ行き着く確率は、宝くじに当たるより低いでしょう。人は明確なビジョンが描けない目標には、決してたどり着けないのです。

 これには反論もあるかもしれません。例えば、ちゃんと目標を立てていたのに、うまく行かなかった例もあるでしょう。その場合、目標までの道のりが、しっかりイメージ出来ていなかったことも考えられます。 どんなに行きたいと切望した世界であっても、そこにたどり着くまでのルートを含め、きっちりとゴールがイメージできなければ、やはり到達することは難しいでしょう。憧れる世界が高く遠ければなおのこと、そこへと至る道のりは、今の自分の力で確実に届く一歩の積み重ねでなくてはならないのです。
 それとは逆に、こんな例もあります。しばしば有名人が口にすることですが、「俺が若い時、目標は何も無かった、でも気が付いたら有難いことに、多くの人から評価される人間になっていた」というケースです。そういう言葉を鵜呑みしてはいけません。なぜなら有名人がそう言う時は、おおむね照れ隠しだったり、謙遜だったりするからです。どんなに才能が在ろうと、ひたすら待っていたら誰かがチャンスを与えてくれることなど、まずあり得ません。成功する人は、人の見えない所で目標に向かってコツコツ努力し、また同時に積極的に才能を売り込んだからこそ名声を得たのです。

 ですから、焦る気持ちのまま漠然と何かを始めたとしても、ゴールまでのビジョンを明確に持たぬ限り、その努力は成果を結び難いでしょう。厳しい見方をすれば、自分さがしは結果的に、目標達成のための努力を回避しているとも考えられるのです。なので端から見ている人には、「あんた、ホントにやる気あんの?」と、本人にとって一番傷つく事を言われたりします。この僕も、何度言われたことか……!(T^T)クゥー


<成果が大事?、課程が大事?>

 さてここまで読んで、基本的な疑問が湧いたかも知れません。それは、始めから目標がはっきりしているなら、自分さがしなんてやるわけないという疑問です。 その通りです。ちゃんと正確な地図を持ち、目的地がはっきりしている人は、時間を浪費して彷徨ったりしません。むしろ目的地に向かって、いちもくさんに走るでしょう。 実はそのせいか 明確な目標を持つ人ほど、自分さがしに批判的な方が多いようです。ですから身近に頑張っている人がいると、自分さがしをいつまでも続けてる自分は、ひどく惨めでくだらなく思えます。
 実は、ここが重要なポイントです。 そもそも、目標達成だけが重要でしょうか? さまようことは、そんなに悪いことでしょうか? 僕は思いっきり「OK!」と言いたいです。今の社会は効率性の強迫観念に支配されています。何か行動を起こすとき、必ず成果が伴わないとダメ人間の烙印を押されます。今最も優秀なビジネスマンは、朝仕事を始め、夕方に札束を握っている人だけです。その結果、今や世の中、死屍累々たる状況。
 もちろん成果の伴わない人生では、生活に困ってしまうでしょう。かといって結果がすべてで、課程なぞ意味がないという考えでは、結果が生じるまでの人生が無意味になります。そんな生き方は、あまりに空しすぎます。なぜならプロセスこそが、まさしくその人の生き様そのものだと思うからです。


<それでは、ボン・ボヤージ!(良い旅を!)>

 最近、自分さがしは、目的を定めない気ままな旅であるからこそ意味があると思うようになりました。成すべき目的が明確な旅行は、単なる移動であって、ではありません。 例えどんなに美しい観光地に出かけても、スキーをして、ゴルフをして、テニスをして、あのお店に行ってあれとこれを買って、あのレストランでこれとそれを食べて、その後この温泉に入って……なんて旅行は、本当の旅と言えるのでしょうか? まあ、そうした旅行も、良い仲間に恵まれた場合、それなりに楽しいんですけどね。それに非日常的な行為にエネルギーを発散させるのは、ストレスの良い解消方法です。ただしそうしたスケジュール満載の旅行の場合、結果的に何にも見ていないことがほとんどです。 もったいないですね。
 もし特に目的もなく、スケジュールも決まっていない旅だったらどうでしょう? おそらく人の習性として、いきなり見知らぬ土地に何の目的もなく放り出されると、ものすごくセンシティブになるでしょう。そんなとき、空の碧、海の蒼、雲の形、花の色、風のそよぎ、木々のざわめき、鳥の声、近く遠くに聞こえる潮騒、潮の香り、花の香り、風の匂い……そんな何気ない出来事から、多くの気づきが得られます。その結果、今まで無視していた多くの発見を得られるはずです。「目的の無い旅」は、決して「意味の無い旅」じゃあありません

 人が美しい光景に心を開くとき、身体のエネルギーを、地球のエネルギーにシンクロさせているのかもしれません。その行為を通して、ニュートラルにチューニングし直しているのでしょう。もし、このチューニング調整がなされぬまま効率に追い回されると、病気になったり精神的に行き場を失ってしまうのです。ひょっとしてそんな危機を感じるからこそ、敏感な人たちは今、自分さがしの旅に出るのかも知れません。いわば、防衛本能って訳です。
 ならば、その事を理解した上で、思いっきり彷徨うってのもあり得ます。目的を達成する旅ではなくて、プロセスを楽しむ旅です。 その旅では、結果なんて求めてはいけません。どれだけ楽しめるかの方が、ずっと大事なのです。しいて目的と言えば、よりニュートラルな状態に、いかにチューニングし直せるかという事だけです。逆説的ですが、その目的のためには、達成しようと力まない方が良いみたいです。
 そう割り切れば、自分さがしも悪くはありません。むしろ、それぞれが楽な生き方を見出すことで、街中に笑顔があふれるならば、こんな幸せは無いと思うのです。


さて「さがしていた丘」という作品に、とても印象的な話を思い出しました。それはエンヤが語った、アルバム「ウオーターマーク」の曲についてのエピソードです。
そのお話は、次の「もっともっと、さがしていた丘」で!

2001年8月:記 
2003年1月:追記
2008年7月7日:修正


<この項、終わり>


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