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その一、母子の別れ

 この話は、僕がずいぶんと以前に聞いたものです。なんでも、九州のとある村に伝わる伝説として語られていたそうです。まだ、日本が外国と戦争をしていた頃のことで、ほとんどの農村の人々の暮らしはそんなに豊かでは無く、時に人の命が朝露の様にはかない時代でした。

 とある深い山中に、とても小さな村がありました。村は、東西に細長い渓谷沿いにありました。激しく泡だつ渓流はとても冷たくて、東に険しくそびえる山々から、深い谷間に沿って西に流れていました。村の南北は切り立った尾根に挟まれ、朝日が昇るのは遅く、夕日が沈むのが早い村だったそうです。村人は、この谷間の両側に広がるごく細長い段丘に、しがみつくように暮らしていました。土地は痩せていて、田や畑を細々と耕して、なんとかやっと暮らしている状態だった様です。

 この村へ通じる唯一の街道は、渓流沿いの狭く険しい道でした。なのでバスさえも来ていませんでした。一番近い町へ行く方法は、下流の村まで小一時間ほど歩いてゆき、そこからようやくバスに乗るしかないのです。しかも一日にたった一回だけやって来るバスで、石ころだらけの山道をごとごと揺られて半日もかかったそうです。

 

 

 この小さな村に「ゆきえ」という女の子がいました。女の子は、早くに父親を亡くしていました。聞く所では、ゆきえがまだお母さんのお腹の中にいるときに、遠く大陸(中国の事)の戦争で亡くなったそうです。ひとり残されたゆきえのお母さんは、自分が生まれ育った山奥の故郷に戻りました。そしてゆきえが産まれてからは、ほんのわずかな間だけ、ゆきえのおじいさん、おばあさんと一緒に、貧しくも幸せに暮らしていました。
 おじいさんとおばあさんには、ゆきえの母以外に子供がいませんでした。不幸なことに、他の兄弟達はみな子供の頃に、病気や事故で亡くなってしまったからです。おじいさんとおばあさんにとって、ゆきえはたったひとりの大切な孫娘でした。

 そうしたある日、ゆきえのお母さんに再婚の話が持ち上がりました。ゆきえの母は、近隣の村にも伝え聞く程の美しい女性でした。ですから、彼女の所にはこれまでも、少なからぬ 再婚話はあったのです。この時の相手の方は、ゆきえの父親の従兄弟とかいう話でした。熊本の裕福な実業家の方で、ゆきえの母にしてみれば、申し分ない縁談でした。

 しかし問題がひとつありました。先方の家は、前夫の子供は引き取れないといのです。この時代は子沢山の家庭も多く、再婚による複雑な家族関係は決して珍しくは無かったはずです。はたして先方はゆきえの父親と、どの様な因縁があったのでしょうか。そうした事情は、今となってはもう知る由もありません。いずれにしてもゆきえのお母さんは、当然のことですが、ゆきえを手放すことを嫌がって縁談を断りました。

 ところが今回の縁談は、いつになく先方が熱心でした。求婚した男性は、この話が縁で、ゆきえの村の窮状を知ることになりました。この方は村の縁者であった上に、なかなか義にも篤い方でした。それでなんと県会議員などに熱心に働きかけて、ゆきえの村へ通 じる道路を整備するなど始めてしまいました。その上バス会社にも働きかけ、バス路線を村へ延長することに尽力した上、その本数を増やす約束も取り付けました。
 この予期せぬ出来事に、村人達が狂喜乱舞したことは言うまでもありません。村人の喜び様は、並大抵ではありませんでした。バスが村まで開通することは、村人にとって長年の悲願だったのです。それは、便利になった事だけが理由ではありません。何せこの村は山奥の寒村の事とて、当然の事ながら無医村でした。道路が整備されることで、医師の回診も増えることが予測されました。道路の整備と村人の健康とは、密接に繋がっていたのです。

 

 ところが、ゆきえの母としては困ったことになりました。このいきさつを知った村の顔役や世話人達が、ゆきえの家にやって来るようになったからです。彼らは、この恩に報いるために何とか縁談を成立させようと、熱心に説得し始めました。ゆきえの母に求婚した男性の名誉のために言っておきますが、その様な下心から道路整備に尽力した訳ではありません。しかし、そんなことを言える状況では無くなりました。もはやゆきえの母から遠いところで、どんどん話が進んで行くようになってしまいました。

 そうするうちにやがて先方が、縁談の条件として、ゆきえの養育費は面倒見ると言ってきました。そうなるといよいよ、断ることも出来なくなってしまいました。ゆきえの育った家は、裕福ではありませんでした。ゆきえの母は、このままではいずれ、ゆきえをまともに学校にもやれなくなるであろうことが分かっていました。結局ゆきえの将来を考え、やっと決心しました。ゆきえの母は、泣く泣くゆきえを実家に残し、新しい 家に嫁いで行く事に決めたのです。

 ゆきえの母の悲しみとは裏腹に、婚礼は村中がお祭り騒ぎだったそうです。祝宴は三日三晩続けられました。そして祝宴の最後には、新しく整備された村道に、村長を始め、長老がずらりと並んで、婚礼の車が村から出てゆくのを村人全員で見送ったそうです。この時ゆきえは三歳になっていました。ゆきえはその後も、毎日お母さんを恋しがって泣いては、おじいさんとおばあさんを困らせたそうです。

 しかもなおも悲しいことに、それから三年も経たぬうちに、ゆきえのお母さんは病気で亡くなってしまいました。それはあっという間のことでした。嫁ぎ先の旦那様は悲しみの余り、半年も床に伏せっていたそうです。ただ幸いなことに、約束通りゆきえが尋常小学校を卒業するまでの養育費を払ってくれたそうです。おそらくそれが、ゆきえのお母さんの遺言だったからでしょう。あるいはこの旦那様には、ゆきえを引き取ることを拒んだ罪の意識がどこかにあったのかもしれません。

 

 

 ゆきえは不幸な身の上ながら、明るく利発な子に育ってゆきました。当時、親を亡くした子供達は少なくはありませんでした。そういった子供達には、村中の人たちが何かと目をかけて面倒を見てくれていたようです。昔の農村では、子供は村の貴重な労働資源でした。しかし当時の山村はとても貧しかったので、生まれてから満足に育つ子供はそう多くはいませんでした。ですから子供は宝物だったのです。食事の時、我が家の食卓によその子が座っていても、喜んで一緒にご飯を食べました。よその家の子も自分の子供も、良いことをしたら誉め、悪いことをしたら厳しく叱りました。それが当然だったのです。どんなに貧しくとも、だからこそ助け合って生きるそんな時代でした。

 でもゆきえは、やはり両親の事になるといつも寂しい思いをしていました。粗末な仏壇の上には、ゆきえの父と母の遺影が飾ってありました。父の写真は、軍服を着た若い男の人が写っていました。ゆきえはこの人が自分のお父さんだと聞いても、どうしても実感がわいてきませんでした。母親の写真は、紋付きの着物を着た女の人が写っていました。ゆきえが、母親と別 れた時はまだ幼かったので、母親の面影を覚えているかどうか怪しいものです。でも、実際に見た記憶があるのか、それともこの写真を毎日見ていたせいかはわかりませんが、なんとなくゆきえには母親の顔に覚えがありました。

 ゆきえは母親にたいして、何となく心にわだかまりがありました。お母さんが、病気で亡くなっただけならまだあきらめもつきますが、どうしてその前に、自分のことを置いて行ったのか理解出来なかったのです。お酒の席になると、ゆきえのお母さんの花嫁姿がどんなに美しかったかを、酔って話す村人が少なからずいました。でもそんな話を聞かされても、ゆきえはちっともうれしくありませんでした。

 ゆきえは父や母のことを知りたがって、何度も何度もおじいさんやおばあさんに、生まれた頃のことを話してもらいました。その度に、ゆきえの母がどんなに悲しんでゆきえと別れたか。そしてゆきえが学校に行けるのは、お母さんのおかげであることを、懇々と聞かされる事になりました。でもゆきえにしてみれば、学校なんかに行けることより、お母さんが側にいてくれた方が何倍も良かったのです。

 何だかゆきえは、自分の母親が許せませんでした。ゆきえは何時しか、自分は母親に捨てられたのではないかと疑うようになりました。いちど疑うと、その疑念はますます大きくなり、どんなに否定しても逃れることが出来なくなってゆきました。


<以下、続く>


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