ゆきえは、寂しいことや、辛いことがあると、いつも家の裏山に登りました。
ゆきえの家はすぐ裏が山になっていて、急斜面が山頂まで続いていました。でも、ゆきえがいつもひとりで登っていたのは、裏山と言っても小さな子供でもすぐに上れるような所です。ゆきえの家の裏庭からは、裏山に続く道がありました。そこをちょっと登ると、やがて村を見下ろせる高台がありました。高台の端っこには一本の大きな桜の樹があって、春には見事な花吹雪が舞い、夏には気持ちの良い木陰ができるのでした。
この桜の樹は相当な老木でした。ゆきえの村はもともと、桜の樹が多かったのですが、この桜の樹は、中でも最も見事なものでした。しかもこの桜の花は、ちょっと変わっていました。普通の桜よりも香りが濃厚で、花びらが薄く藍色がかっているのです。朝夕になるとその香りも藍色も、いっそう濃くなりました。そんな時桜の樹は、なんとも不思議な影を宿すのでした。
ゆきえの祖母は、この桜のことを曙桜(あけぼのざくら)と教えてくれました。
淡い曙の空のような花色から、その名が付いたそうです。しかしその桜のことを、一部の村人は「気狂い桜」と呼んでいました。この桜の花の香りを長時間嗅ぎ続けると気が変になると信じる村人もいたのです。ゆきえは、その呼び名が大嫌いでした。でも、晴れ渡った夕暮れに見せるその花の色は、ゆきえにも時々狂おしく、そして悲しげに感じることがありました。
さてゆきえが、事ある毎にこの桜の樹の元にやって来ていたのは、秘密の場所があったからです。この桜の樹の根っこには、丁度子供ひとりすっぽりとはまるようなくぼみがありました。そこに座るとうまい具合に、ゆきえの家の屋根が真下に見えるのです。しかも、そこにいると誰にも邪魔されませんでしたから、ゆきえは何か考えたいことがあると、いつもここに座って時間を過ごしました。
でも、いつそんなことを覚えたのか、ゆきえ自身も記憶がはっきりしません。そのくらい幼い時から続けてきた、ゆきえだけの秘密の習慣だったのです。桜の樹に背をあずけ、根っこに抱かれるように座っていると気持ちが落ち着いてきて、いろんな悩み事も消えてゆくようでした。自分の知らない父親や母親のことを、ゆきえはここでよく考えました。そうしていると、いろんなことが思い出せるような気がしたからです。すると父や母への恨みがましい気持ちが消えて、ただ思慕の思いだけがほんのりと、心の奥に暖かく灯るのでした。
やがてゆきえは、尋常小学校を卒業しました。そしてすぐに、近くの町に出て働き始めました。それは、とある商家での住み込みの仕事でした。当時の女の子の勤め口としては、お給金も申し分なく、なかなか良い働き口でした。これは貧しかったゆきえの家にとって、大いに助かることでした。でもゆきえにとって、自分の育った村からさほど遠くない町であることが一番、嬉しいことでした。何時でも家に帰れるわけではありませんが、いざとなればバスに乗ってすぐに帰れるというのは、なんとなく心強く感じられました。
実はこの働き口も、ゆきえのお母さんが嫁いだ旦那様の紹介でした。ゆきえは、世話になったこの旦那様に、生涯会うことはありませんでした。この方が決して会おうとしなかったからです。一説には、ゆきえが成長するに連れて、どんどんお母さんに似てくるので、旦那様の関係者が気を使ったのだとも言われています。
さてこうして、たちまち月日が過ぎて行きました。いろいろと失敗や苦労もありましたが、持ち前の明るさと聡明さ、そして日々の努力の甲斐もあって、なんとか商家で一人前に仕事が出来るようになりました。ゆきえは成長するにつれて、ますます気だての良い美しい女性になってゆきました。そしてやがてお得意様の間では、看板娘としてすっかり人気者になりました。なので商家の旦那様夫婦にも、大層可愛がられたそうです。
そんなある日のこと、ゆきえは商家の旦那様に呼ばれました。それはちょうどゆきえが、十七歳になったばかりの頃でした。旦那様がお待ちの奥座敷に行ってみると、驚いたことに奥様もいっしょに座っておりました。何時もとは違う様子でしたので、ゆきえは緊張して部屋に入りました。ところが話を始めた旦那様は、何やらモグモグとはっきりしません。
「最近、おまえは元気か?」
と話を切り出したと思うと、
「最近、天気が思わしくない」
と、どうでも良い話を始めたかと思ったら、いきなり、
「このごろ飲み始めた薬は、なかなか良い」
と話題をそらして、さっぱり要領を得ないのです。
ゆきえは首を傾げました。普段は仕事場で、こんなふうにはっきりしないしゃべり方をする人では絶対に無かったからです。それを横目でじろりと見て、奥様がゆきえに向き直って話し始めました。
「やれやれ、しょうがないね。
「こういったことは、いざとなったら男はほんとにダメだね」
奥様は、あきれたようにそう言って、ゆきえに優しく笑いかけました。
「実はね、登志夫のことなんだけど。ゆきえ、おまえは登志夫をどう思うかい?」
ずいぶんいきなりな話に、ゆきえは驚いてしまいました。登志夫とは、この商家の甥御さんの事です。このあたりのみんなには、若旦那さんと呼ばれて親しまれていましたが、今やこの商家では、未来の大黒柱と言っても良い大切な方でした。
でもこのときまだ二十六歳だったと言いますから、相当にお若い方です。しかも当時この様な田舎では珍しい旧制高校(現在の大学教養課程)出でした。高校卒業後はしばらく、博多の商社で海外貿易を学んだそうです。それから、故郷のこの商家に戻って手伝うようになって、おおよそ三年ほど経っておりました。仕事熱心な方で、商売に関してもしっかりしたお考えをお持ちで、旦那様にもハキハキと意見をおっしゃる方でしたから、お得意様からもなかなかに信頼されておりました。
さて、あまりに唐突な奥様の質問に、ゆきえは何と答えて良いのかわかりませんでしたが、率直に、思うことをそのまま口にしました。
「とても素晴らしい方です。お優しくて、私たちにも良くしてくださいます」
これを聞いて、奥様は、またにっこり笑って話を続けました。
「実はね、それでお前に相談があるのだけど……」
この後、奥様の話を聞いて、ゆきえはびっくりしてしまいました。旦那様夫婦のお話は、ゆきえの縁談話でした。そもそもの話は、この度登志夫が暖簾分けをして新しく店を持つことになった事から始まります。この商家は大層繁盛しておりましたので、近くの大きな街に支店を出すことになりました。このところ、その支店を設立するのに、登志夫は不眠不休の尽力をいたしておりました。それにこの支店には、いろいろと新しい試みもありました。
それでとうとう登志夫が独立して、支店を任されることとなったのです。三十歳前の若旦那が、早々と独立して一つの店を任されることは、全く異例のことでした。しかも商家から若い従業員を選び、何人かが若旦那様と一緒に移ることになっていました。今やその話が、従業員の間で持ちきりでしたから、ゆきえも良く知っていることでした。
ところがその後に続く話は、もっと驚く内容でした。実はこの登志夫、せっかく店を持って独立するなら、出来ればその前に所帯を持ってはどうかと、旦那様夫婦から幾度も言われていたらしいのです。しかしこの男、仕事は熱心だが全く女っ気もなく、そちらの方面ではとんと不器用な方でした。旦那様夫婦が、いろいろ良さそうな話を持ってきてはこの若者に勧めるのですが、いっこうに「うん」と言わないのです。やがて奥様が「さては」と思い、「誰か、お前には心に決めた人がいるのかい?」と問うたそうです。するとなんと登志夫は、実に言いにくそうに、ゆきえの名前を口にしたそうです。この登志夫が、あまりに真っ赤になって話す様子に、奥様は、思わず大笑いしたとか。
さて、奥様がここまで話したところで、代わって旦那様が話し始めました。さっきと違い、落ち着いてお話しされる様子です。
「ゆきえ、お前は知らないだろうが、実はお前の縁談が、これまで幾つも私の所に来ていたのだよ。しかし、どれもなかなか私の気に入る話がなくってねえ……。
「私たちは子供に縁が無くてね。実は、お前を何度か養子にしようかと夫婦で相談した事もあったんだよ。だから今更、おまえを他人に手放すのは惜しくてね」
これは、ゆきえには本当に有り難い話でした。実の親がいないゆきえにとって、今の商家の旦那様と奥様は、ゆきえにとって、すでに両親の様な存在でしたから。その暖かい言葉に、思わずゆきえの目頭は熱くなりました。旦那様は、更に続けて言いました。
「だから、ゆきえが登志夫のことを気に入ってくれたら、私たちも嬉しいのだよ。
「しかしおまえの考えもあるだろうから、こうして聞いてみたというわけだ」
ゆきえには、もう一にも二にも無い話でした。今まで生きてきた人生で、いちばん嬉しい話です。気が付けば、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていました。旦那様と奥様の優しさが、ゆきえの心にしみ入るようでした。しかし何よりも、登志夫がゆきえと一緒になりたがっていることを知ったことが、本当に嬉しかったのです。何故ならゆきえは、このことを誰にも打ち明けたことはありませんでしたが、ずっと密かに登志夫のことを慕っていたのです。
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