もっともっと「ララバイ」

その三、秘密の場所

 はじめてゆきえが登志夫に会ったのは、もうずいぶん昔のことになります。そのことを今でもゆきえは、はっきりと覚えておりました。それは初夏の頃で、ゆきえがこの商家に働くようになって間もない頃です。ゆきえは、新しい町の暮らしにもこの商家の仕事にも、なかなか馴染めずにおりました。そして毎日さびしい思いをして、故郷の事ばかりを考えていました。故郷のことを考えるとき、ゆきえがいつも思い出すのが、あの裏山の曙桜でした。そのたびに、あの根っ子に座れたらどんなにか良いだろうと思うのでした。

 ところがこの商家にも、古びた桜の樹がありました。その場所は、奥座敷の離れの間がある裏庭でした。奥座敷は、使用人が断り無く入ってはいけない、旦那様ご夫婦のお住まいです。でも使用人部屋の勝手口から、中庭を抜けてぐるっと回って行けば、桜のある裏庭との境は、簡単な生け垣に仕切られているだけでした。生け垣と言っても背の低い芝垣と仕切戸だけで、鍵もありません。裏庭を見たければ、いつでも入ることが出来ました。

 初めてゆきえが見た裏庭の桜は、満開でした。ある日桜の木に近づきたくて、とうとう裏庭に忍び込んでみました。ゆきえはどきどきしながら、奥座敷の様子をうかがいました。離れの間は、ゆきえにはとても珍しい洋風の造りです。裏庭に面した側は、瀟洒な菱形格子のガラス戸になっていました。ガラス戸はぴったり閉ざされており、その外側には窓枠と同じ菱形格子の洒落た木枠の手すりが突き出しています。どうやら離れの間には、人の住んでいる気配がありません。手すりには落ち葉が積もり、どの窓のカーテンもひっそりと閉じておりました。

 ゆきえは少しホッとして、桜の木に近づいてみました。故郷の曙桜ほどの大木ではありませんが、枝を低く横に張り出し、堂々とした桜の古木です。しかしその花の色は、ずいぶん白く見えました。それに幹はずっと細くて、曙桜のように根っこに腰掛けるところもありませんでした。でも空を覆うほどに広げた枝から、吹雪のように純白の花びらが舞い散る様子は、故郷の懐かしい桜の木とはまた違う趣がありました。ゆきえはさびしい思いも忘れ、花吹雪が陽光にきらめく様子に、すっかり心惹かれてしまいました。

 それ以来ゆきえは、度々桜の樹の様子を見に来ました。そしてその都度、誰かに見つかって怒られるのではないかとハラハラしていました。しかしいつ来ても、奥座敷には人の気配がありませんでした。そしてゆきえも桜が散った後は、二度と奥座敷の庭に立ち入る様なことはしませんでした。それより芝垣の影に、腰掛けるのにちょうど具合のいい庭石を見つけました。そこからなら、桜の樹もよく見えました。それからというもの、暇さえあれば庭石に腰掛け、大事にとって置いたおやつをいただきながら桜の樹をながめるのが、ゆきえの密かな楽しみになりました。

 

 

 そんなことがあって二月ほど経った後、夏も近い夕方のことでした。ゆきえは、いろいろと覚えなくてはならないことも多くて、裏庭になかなか来られませんでした。でもこの日、夕方ちかくなって、久しぶりに休み時間がもらえました。ゆきえはおやつを着物の袂に忍ばせて、うきうきしながら秘密の場所にやって来ました。
 ところが奥座敷の庭を見て、ゆきえはビックリしました。桜の樹に無数の赤い玉が輝いていたからです。珊瑚のような玉が、どの枝にも一杯に下がっています。おりしも真っ赤な夕日を受けて若葉の間から、黄色や赤がキラキラと輝いて見えました。ゆきえは、サクランボと言うものを知りませんでした。ですからもう珍しくて、時が経つのもすっかり忘れ、いつまでもながいこと見上げておりました。

 やがてゆきえは、もっと近くに見たくて我慢できなくなりました。とうとう仕切り戸を開けて、裏庭に忍び込んでしまいました。間近で見た紅い実は、信じられぬほどの美しさでした。桜の枝はサクランボの重みで低く垂れ下がり、ゆきえが届く枝にもたわわに実っています。思わずそっと、手を伸ばしました。ゆきえの細い指が、はち切れそうなつるつるの感触を確かめた、その時でした。 ゆきえは、はっと手を止めました。離れの間に人の気配がしたからです。

 後を振り向いたゆきえは、飛び上がるほどに驚きました。これまでピッタリ閉ざされていたガラス戸が、なんとこの日に限って開いているではありませんか! ガラス窓は観音開きになっており、それぞれ二つに折れて左右に大きく開け放たれておりました。うかつにもサクランボに見とれていたゆきえは、周囲に気を配るのを忘れていました。でも離れの間に誰かいるなど、考えもしませんでした。ゆきえの知る限り、裏庭で人を見かけた事は、これまでいちどもありませんでしたから。しかもあろうことか、ゆきえは見知らぬ若者と目があってしまいました。その若者は、左座りに出窓に腰掛け、背中を窓枠に預けています。右手に厚い本を開いて持ち、左肘を手すりに乗せて、じっとゆきえを見ておりました。 黒っぽいズボンに真っ白なシャツを着ていたようですが、ゆきえはもうはっきり覚えていません。でもその白いシャツが夕日に赤く映えて、ゆきえには目に痛いほどまぶしく見えました。

 しばしの間、息詰まる時が過ぎた後、ゆきえは我に返ってあわてて逃げ出しました。しかしそのあとも、気が気ではありませんでした。てっきり怒られるとばかり思っていたのです。そして時間が経つほどに、すぐに謝らなかったことをいっそう悔やみました。

 

 

 それから、二日ほど後のことです。ゆきえは店先で、外出から戻ったばかりの旦那様に呼び止められました。

「おう、ゆきえか! 丁度良い これをすぐに家内に渡してくれ!」

 受け取って見れば、四角くて薄い風呂敷包みでした。

「あの! 奥様は今、お客様がお見えになってますが……」

「それはかまわん。渡せばすぐ分かる。頼んだぞ!
「ああそれから、今から町内の寄り合いなんで、晩飯は要らんと言っておいてくれ」

ゆきえが何か問う間も与えず、旦那様は再びせわしなく出かけて行きました。仕方なく、奥様のいらっしゃる奥座敷へと向かうと、まだお客様とお話し中です。お客様は中庭を眺めておいでなのか、縁側近くでこちらに背を向けて座っておりました。奥様とは離れて座っておりましたが、二人で穏やかに談笑なさっている様子でした。ゆきえは、お邪魔してはならないと思い、店に戻ろうとしましたが、気配に気づいた奥様に呼び止められました。

「ゆきえ、お待ちなさい! 何か用があったんじゃないの?」

「はい奥様! 旦那様からの預かり物なのですが……」

「何かしら? こちらにいらっしゃい」

 ゆきえは座敷の間口でお客様に挨拶して、奥様のところに進み出ると、旦那様からの預かり物を渡しました。奥様は、風呂敷包みを受け取ると、中も見ずにそのまま座卓に置きました。そして縁側近くに座っているお客様に声を掛けました。

「これ、旦那様があなたのために探していた本でしょう?
「 ホントにまあ、お前は本の虫だねえ!」

 そのように奥様がお笑いになったので、お客様はゆっくり立ち上がって、頭をかきながら座卓に歩み寄りました。

「いや、ははは! すみません。御手数をかけました」

 お客様は、この屋敷では初めて見かけた男の人です。絣(かすり)の着物に紺袴という、書生風の身なりをしておりました。九州の男性にしては色白で細面です。彫りの深い顔立ちに、やわらかそうな黒髪が無造作に分けられ、前髪がざんばらに額にかかっておりました。
ゆきえは部屋の間口に下がると、お客様の様子が気になって、その横顔をそっとうかがいました。お客様は大事そうに風呂敷包みをほどくと、中に入っていた本を取り出しました。そしてしばらく、嬉しそうにその本をぱらぱらとめくっていました。好奇心からゆきえがその本をそっとのぞき込むと、難しそうな字がいっぱいに書かれた本でした。

 すると奥様が尋ねました。

「ゆきえ、旦那様は他に何か言ってなかったかい?」

「はい、これから町内の寄り合いとかで、夕ご飯は要らないとおっしゃってました」

 これに奥様は、大きくため息をつきました。

「まったく、そうじゃないかと思ったよ! 飲み助共の集まりは良いから、今夜は早く帰ってくるようにって、あれだけ釘を刺したのに!
「すまないね、せっかくのお祝いに、寿司源にでも行こうと思ってたけど」

 これに若いお客様は、相変わらず本を繰りながら明るく笑いました。

「ははは! おじさんが人付き合いが良いのは、まったく変わらないですね。
「僕はしばらく逗留しますから、今夜でなくて良いですよ。この本も読みたいし」

 ところがそう言った後、お客様は、ふと何かに気付いたように手を止めて、ゆきえを振り返りました。そして聡明な切れ長の目が、じっとゆきえを捕らえました。その瞬間、ゆきえは心臓が止まるかと思いました。その眼差しに見覚えがあったからです。このお客様は、裏庭に忍び込んだゆきえのことを離れの間から見ていた若者でした。ゆきえは若者の目が見返せず、思わずうつむいてしまいました。そして座敷の間口に座ったまま、ただ射すくめられた様に縮こまっておりました。すると若者は、奥様にさりげなく尋ねました。

「新しく来た子ですか?」

 何だかそれが、遠くの空から聞こえる審判の声のようでした。
 奥様は、すぐに答えました。

「ええ、この春から見習いで来た子なの。ゆきえというのよ」

 ゆきえの心臓は、早鐘のように波打ちました。身を固くして、もう自分はお終いだと思いました。しかしそれ以上、ゆきえの立場がまずくなるようなことは、何も起きませんでした。若者がそれっきり、何も言わなかったからです。代わりに奥様が言いました。

「ありがとうゆきえ。ここはもういいから、早く仕事に戻りなさい」

 石のように縮こまっていたゆきえは、弾けるように一礼して部屋を飛び出しました。ところが、奥座敷から勝手口へと戻る廊下の角で、ゆきえは突然、何者かに呼び止められました。

「もし! ゆきえ……さんって、いいましたね?」

 ゆきえが振り返ると、座敷のふすまを少し開けて、さきほどの若者が顔をのぞかせていました。はらりとかかった前髪の下に、いたずらっぽい目がキラキラと輝いています。ゆきえは、やっぱり怒られるのだと思いました。でも同時に、自分がずっと謝れば良かったと後悔していたことも思い出しました。

「あのう……この前は、お許しも無く裏庭に入って、ごめんなさい」

 ところが若者は怒るどころか、ゆきえの言ったことがすぐに分からないというように、目をぱちくりとさせました。しばらく経って、ゆきえが何を言っているのか理解したらしく、明るく笑ってみせました。

「なんだ、そんなこと気にしてのかい。別に、たいしたことじゃないのに」

 さらにその若者は、こう言いました。

「いいかい! ちょっと、そこで待っているのだよ!」

 若者は、しばらく座敷の奥に引っ込んだかと思うと、ほどなく何かを手に持って現れました。そして無言で、それをそっとゆきえに差し出しました。ゆきえが驚いて受け取ると、やや重みのある新聞紙の包みでした。何が起きたのかわからずにゆきえは、ただおろおろすろばかりです。若者は相変わらず、いたずらっぽい笑顔を浮かべています。そしてゆきえに耳打ちするように、小声で言いました。

「ほら良いから、早く開けてみて!」

 その言葉に促されて新聞紙の包みを開けると、なんと中に入っていたのは、数えきれぬほどの真っ赤に輝く珊瑚の玉でした。若者はまた、耳打ちするように言いました。

「このサクランボウはね、とても美味しいから。あとで食べるんだよ」

  そしていたずらっ子のように笑うと、再び屋敷の奥へと姿を消しました。

 あまりに突然のことで、ゆきえはただただ驚くばかりでした。そしてこの赤い実が「サクランボウ」という名であることも、初めて知りました。 なんと若者は、ゆきえのためにこの実を採っておいてくれたのです。その紅色の輝きを手にして、ゆきえは本当にうれしく思いました。一つ手にとって日の光にかざすと、まるで宝石のようにキラキラと輝きます。貧しい育ちのゆきえには知るよしもありませんでしたが、物語に聞く西洋のルビーもかくやという輝きでした。これほどに美しいものを、ゆきえは見たことがありません。しかもこれが食べられるという事を知って、ゆきえはいっそう感激しました。

 実はこの若者は、他の使用人に悟られぬように、ゆきえが一人でいる機会をずっとねらっていたのでした。後からゆきえは、この若者が登志夫と言う名前で、丹那様の甥御さんであることを知って、本当に驚いたそうです。それまで故郷のことばかり考え、まったく元気を無くしていたゆきえにとって、深紅の輝きは大きな勇気づけとなりました。登志夫から贈られたサクランボは、一人で食べるには十分すぎるほどありました。その夜、ゆきえが始めて口にしたサクランボは、とても甘酸っぱく、そしてなぜか少し切ない味がしました。


<以下、続く>


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