もっともっと「ララバイ」

 
その四、サクランボの精

 そんなことがあった数年後、春からこの商家で、登志夫が働くようになりました。この頃のゆきえといえば、既にりっぱに商家の仕事をこなすようになっておりました。なのでむしろ、店の商習慣や、取引先の事情に不案内だった登志夫に対して、時にはゆきえの方がいろいろと教えてあげることもありました。それも一年も過ぎると、登志夫は早々に商家の仕事の要領を心得て、かなり大きな役割を果たすようになりました。登志夫はもともと優秀な人でしたが、この間、細々と手ほどきしてくれたゆきえを、なにかと気遣ってくれるのでした。

 そうして初夏を迎えたある日のこと、ゆきえは登志夫に呼ばれました。呼ばれたのは、最近になって登志夫専用の仕事部屋となった座敷でした。しかし座敷とは名ばかりで、以前は物置として使われていた狭い部屋です。皆が、もっとまともな部屋をと奨めたのですが、登志夫は気にする様子もなく、お店が近くて便利だからと落ち着いたのでした。雑然と積み上げた物に埋もれ、登志夫は座卓に向かい、様々な帳面を広げておりました。当然、仕事の用件と思っていたゆきえに、登志夫は意外なことを聞きました。

「ゆきえさん、あしたはお休みだったね」

「は、はい」

「何か予定があるかい?」

「はい。明日は、夏物の生地を祖母に見繕ってあげようかと考えておりました」

「じゃあ、だめか」

「あの、特に急ぎの用でもありませんので、お仕事のことでしたら、なんなりと」

「いや、仕事ってわけじゃないんだが、半日ほど手伝って欲しくてね」

「私はかまいませんので、気になさらずお申し付け下さい」

「じゃあ、つまらないことで申し訳ないけど、手伝ってくれるかな?」

「はい、何でございましょう?」

「実は、裏庭のサクランボウが熟れているので、そろそろ採ろうと思っていたんだ。梅雨が本格的に始まる前に収穫しないと、腐って落ち始めるからね。幸い明日は天気が良さそうだ、なので、君にも手伝って欲しい」

「あのう、私が……ですか?」

「うん。あれはね、はしごを使って採るので、重労働なのだよ」

「その様に危険なこと、他の方にお願いなさればよろしいのに」

「うん、そのことだが……いつも来てくれる庭師のおっちゃんがいるんだけど、先週、腰を痛めてダメだと言ってきた。なので 今年は、僕が採ることにした。つまらんこだわりと言えばそれまでだが、何だかこればっかりは、自分でやらないと気が済まないんだよ」

「あの、私がお手伝いしても、勝手が分からず、かえってご迷惑かと思いますが」

「なに、簡単なことだ。僕がサクランボを摘んで上から籠を下ろすから、それを下で受け取って欲しい」

 ゆきえが返事に迷っていると、登志夫は殺し文句を言いました。

「君も、あのサクランボウが好きなんだろう?」

 これにゆきえは、自分でもはっきり分かるほど顔が赤くなりました。なので、思わず返事してしまいました。

「あの、お手伝いさせていただきます」

「じゃあ決まりだ! そうだな、明日の八時に裏庭に来てくれ。出来れば、午前中には終わらせたい」

 

 こうして訳の分からぬまま、ゆきえは約束してしまいました。しかしその反面、自分で驚くほど心は浮き立っておりました。また珊瑚のような、あの赤い実に触れられると思うと、我ながら恥ずかしいほど笑みがこぼれました。そわそわと眠れぬ夜が過ぎた翌日、ゆきえが裏庭に回ると登志夫は既に、桜の樹にはしごを立てかけ、鈴なりのサクランボを摘み取っていました。それにしても、他に手伝いがいると思ったのですが、ゆきえ以外、誰も見あたりません。

「あの、お手伝いは、私だけですか?」

「そうだよ。こんなこと頼めるのは、君しかいないからね」

 思わずゆきえは、顔が赤くなるのを覚えました。しかし、はしごの上から屈託無く笑う登志夫は、幼い頃の近所の悪ガキのようで、ゆきえにもつい笑顔がもれました。

「そうやってぼんやり眺めていると日が暮れてしまう。そら! この籠を下ろすから、受け取ってくれないか」

 小走りに桜の樹の下に駈け寄ると、紐にぶら下げた籠がするすると下りてきました。ゆきえが受け取ると、意外な重さに驚きました。登志夫がはしごの上から指さしています。

「ほらそこ、君の足下に大籠があるだろう? 今下ろしたサクランボウは、そっちに全部開けてくれないか」

「はい。この籠に移せば良いんですね」

 抱えた籠を逆さにしようとすると、登志夫が止めました。

「ああ、ぶちまけちゃダメだ! 丁寧にやるんだ。サクランボウは傷みやすいからね」

 ゆきえはあわてて慎重に、サクランボウをそっと両手ですくって大籠に写しました。それからは何度も、二人で籠の上げ下げを繰り返しました。登志夫はあっちの枝、こっちの枝とはしごをかけ直し、サクランボウに手を伸ばしました。下から見ていたゆきえは、とりわけ高い枝ともなると、登志夫が落ちるのでは無いかと心配してハラハラするのでした。やがてはしごから降りてきた登志夫は、突然こんなことを言いました。

「ゆきえさんも採ってみるかい?」

「あの、私が……はしごに登るんですか?」

「うん、僕が下から支えてやるから」

 若い娘がはしごに登るのは、ちょっとはしたなく思えます。しかし登志夫がサクランボウを採る様子は、先ほどから見ていて楽しそうで、うらやましくさえ感じていました。

「やらせてください!」

 そう言うとゆきえは草履を脱いで、軽々とはしごを上りました。もともと山村育ちなので、こういうお手伝いは子供の頃から得意です。でも今日は、いつものお店での仕事着でした。紺絣の着物をたすき掛けして、その上からお店の屋号が白く染め抜かれた、えんじ色の前掛けを付けたなりです。こんなことなら、もんぺを着てくるのだったと思いました。

 登志夫は、はしごを支えながらゆきえを見上げて、感心したように言いました。

「へえ、ゆきえさんって、運動神経が良さそうだ」

 下からの登志夫の声に、ゆきえは着物の裾を押さえ、真っ赤になって言いました。

「あ、あの、見上げないでくださいっ!」

 その意味に気付いて、今度は登志夫が真っ赤になりました。

「あっ! ご、ごめん!」

 でも、初めて経験するサクランボウ摘みは、とても楽しい体験でした。籠はたちまち一杯になり、ゆきえはそれを抱え、軽々とはしごを降りました。ところが片手に籠を抱えていたせいか、最後の一段になってバランスを崩しました。次の瞬間、地面に叩きつけられたと思ったのですが、ゆきえの体は宙に浮きました。

「あぶないっ!」

 かろうじて登志夫が、ゆきえを抱き留めたからです。しかしそれも一瞬のことで、登志夫はあわててゆきえを離しました。

「ご、ごめん! 僕が無理をさせたばかりに!」

「い、いえ。私の方こそ、浮き足だって」

 思わぬ事になって、ゆきえは顔から火が吹き出そうでした。恥ずかしいので籠からこぼしたサクランボをあわててひろい集めました。登志夫も手伝いながら、一つ咳払いしました。

「と、とにかく、今日はこれでお終いにしよう。だいぶ収穫もあったことだし」

 そう言われてみると、始めてからさほど経ったと思えないのに、大籠はすでに一杯でした

「これ、商売になりますね」

「ははは、確かに。でも毎年、お世話になっている方にお裾分けしているんだ」

「そうでしたか、では私が、洗ってまいります」

「それは、おばさんがやってくれる。それよりお菓子があるから、休んでいかないか?」

 登志夫は、洋間の入り口を指しました。

「そんな、ご迷惑ではありませんか?」

「お手伝いのお礼だよ。さあ上がって!」

 

 奨められるままに洋間に入ると、タタミのない板の間でした。部屋の真ん中には、小ぶりなティーテーブルがあって、椅子が二つ置いてありました。窓際には、がっしりした造りのデスクがあって、その上の真鍮製のランプや、見事に細工が施された色ガラスの花びんなど、ゆきえには何もかも珍しい品物ばかりです。とりわけ壁の一面を占める立派な本棚と、ずらりと並んだ文学全集には目を丸くしました。

「これ、全部お読みになったのですか?」

「ああ、子供の頃からだから、何度もね」

 そう言うと登志夫は一冊の本を抜き取って、テーブルに置きました。

「これ知ってるかい?」

 そのようなことを聞かれても、ゆきえは、こんな立派な本に縁がありませんでした。
 なので、無言で首を横に振りました。

「この本は、『桜の園』って言うんだ。チェーホフってロシアの人が書いた小説だよ」

「まあ『桜の園』なんて、楽しそうなお話しですね?」

「いや、楽しいかと聞かれれば、どうかな? でもロシア文学はね、とかく人間の有り様を深く考えさせられるんだ」

 ロシア文学など無縁な人生だったゆきえには、何とも答えようがありませんでした。なので、あいまいにうなずきました。すると登志夫は、くすっと笑いました。

「実はね、君が初めてこの庭に現れた時、僕は、この『桜の園』を読んでいたんだ」

「そうでしたか」

「うん、君にも読んで欲しくてね」

「えっ! 私には、そのような難しい本は無理でございます」

「そうかな。君の様な人にこそ、読んで欲しい本なのだが」

「買いかぶりでございます」

「そう言う無意味な卑下は、好きじゃないな。これからは、女性も高い教養が必要な時代がきっと来る。君は頭が良いんだから、もっと前向きでいて欲しい。良かったら面白そうな本を見繕ってあげよう。君となら、興味深い読書感想が言い合えそうだ」

「あの、御言葉は有難いのですが、お仕事もありますので……」

「そうか、確かに無理強いは良くないな。でもこれならどうだろう? 児童文学だから、仕事の合間や、寝る前にも気楽に読めるよ」

 見れば、表紙に美しい横文字とカラーイラストが書かれた外国文学でした。ゆきえにすると極めて上等な本なので、思わず手に取りかねました。

「あの、そちらも私には難しそうです。それに大切な本を汚しては……」

「ははは! 気にしなくて良い。これは僕が子供の頃、さんさん汚した本さ。それにこの本はアンデルセンと言って、ヨーロッパでは小学生が読むような童話だ」

 そう言いながら登志夫は、ゆきえの手に持たせました。ゆきえは先ほど、初めて聞く「チェーホフの『桜の園』」という本に、本心では惹かれていたのです。なので今度は、西洋の童話という本を、興味津々受け取りました。そして我ながら驚くほど、エキゾッチックな物語にワクワクするのでした。その気持が伝わったのか分かりませんが、登志夫は優しく笑いました。

「他にも『イソップ』や『グリム』、そして『ラフォンテーヌの寓話』とかも、子供向けとは言え奥深い。『桜の園』も気が向いたら何時でも貸してあげるよ」

 登志夫はさらに横のガラス戸棚を開きました。見ると洋風の食器が収められています。どうやら、お茶の用意をする様子なので、ゆきえはあわてて手伝おうとしました。

「お茶の用意ならば、私が」

 すると、登志夫が両手を振りました。

「おっと! 君は今日、僕のお客だ。だからそこに、堂々と座っていてくれるかな。
「それとも僕の代わりに、紅茶を淹れてくれるかい?」

 ゆきえは紅茶なんて見たこともありません。仕方なく、登志夫の指示した椅子に座りました。座り慣れない椅子は、ひどく居心地が悪く思えました。そのうちゆきえは、ふと気づきました。お湯が無くては、お茶を淹れようがありません。なので立ち上がって登志夫に言いました。

「あの私、お台所に行って、お湯を沸かしてまいります」

 すると登志夫は、笑いだしました。

「ははは、君は本当に働き者だ! 今はお客だから、そんなこと気にしなくて良いんだ。
「それより、ほら見たまえ。最近は、こんな文明の利器もあるんだよ」

 そう言って、自慢げに指し示した窓際の棚には、金属製の水差しが乗っていました。登志夫はそれに歩み寄ると、長いコードを取り出して片方を水差しの横に、もう片方を壁際のコンセントに差し込みました。

「これはね、電気ポットだよ。ドイツ製なんだ」

 聞き慣れぬ言葉に、ゆきえは首を傾けました。

「電気ポット……ですか?」

「そうだ。電気でお湯を沸かす道具だ。電気さえ来ていたら火をおこす必要がない」

「まあ、それはまた、ずいぶんと便利なものがあるのですね」

「これからはね、何でも電気がやってくれる時代が来るんだよ」

 次々と珍しい物が現れるので、ゆきえは目が回りそうでした。じきに電気ポットは、コトコトと湯気を吹き始めました。登志夫はそのお湯を素早くティーポットに移し、紅茶を淹れてゆきました。その見事な手さばきに、ゆきえはひたすら感心するばかりでした。やがて琥珀色の紅茶が二人分のカップに満たされると、部屋中に芳香が漂いました。登志夫はさらに、ガラス戸棚から菓子箱を取り出しました。

「これはピロシキというんだ。そう言えばこれも、ロシアのお菓子だった。奇遇だな」

 登志夫は、楽しそうに菓子箱の中身を見せました。格子模様の焼き菓子からは、甘い香りが漂ってきました。

 

 甘いお菓子に、薫り高い紅茶。どれもこれも夢のような時間でした。その日登志夫は、分かれしなに新聞紙の包みを渡しました。もちろんその中身は、熟れたサクランボです。その後ゆきえは、サクランボウを食べながら日が暮れるまで、夢中でアンデルセン童話を読みふけりました。素晴らしい挿絵と物語に、遠い遠い外国の夢のような暮らしを初めて知ったのです。
 とても充実した一日でしたが、ゆきえには何故か、とまどいがありました。ゆきえはこの日、心の奥に芽生えた感情に、はっきりと気が付いたのです。これまでも登志夫の方ばかり見ている自分に気づくことが、しばしばありました。何時しか知らずゆきえは、登志夫にほのかな恋心を抱いておりました。しかし登志夫は、将来、この大店を背負って行こうという程の大事な方です。自分のような貧しい身分の者では、つりあう訳がありません。自分だけがこのように目をかけていただくことは、いつかはお断りして、けじめをつけなくてはなりません。やがてゆきえは、空しい想いを断ち切ろうと決心しました。しかし、あきらめようとすればするほど、ゆきえは登志夫に強く惹かれてゆくのでした。

 

 

 それから二年ほど経ったある日のこと、ゆきえは大事なお得様から、月例の注文書を預かりました。旦那様と奥様はお出かけだったので、それを登志夫の所に届けました。相変わらず登志夫は、狭い部屋で様々な物に囲まれ、座卓にいっぱい帳面を開いております。しかし何故かぼんやりとほおづえを着き、なんだか浮かない表情でした。ゆきえが声をかけても、どこか上の空なので、仕事の邪魔をしてはならぬと思い、注文書の件は後にして一礼して下がろうとしました。

 するとそのゆきえを、突然、登志夫が引き留めました。

「ゆきえさん、君の考えを聞きたい」

 ゆきえが驚いて登志夫を振り返ると、声をひそめました。

「まだ、人に聞かれたくない話だ。ふすまを閉めてくれ」

 何事かと驚きましたが、言われるままにふすまをそっと閉めました。そして居住まいを正すと間口に正座しました。すると登志夫が待ちかねたように、話しかけてきました。

「いろいろと考えていたんだが、ちょうど君が来てくれてさいわいだった。このさい、君の考えも聞きたいと思ってね」

 登志夫の話は新しい店舗計画の件でした。そこで登志夫は店長となり、しかも若い従業員を選んでその店に移ることになるだろうと言うのです。それは登志夫にとっても、この店にとっても、この上ない目出度い話でした。

「それは、おめでとうございます!」

 ところが登志夫は、ひどく憂鬱そうです。

「そのことなのだが……。僕はね、気が進まないのだよ。もう少しこの店のことを学んでから、店番ぐらいならやって良いと考えていたんだ。それがいきなり店長だろう?
「……嬉しいと言う前に気が重いんだ。うまくやっていけるか、不安ばかりが 先に立つ」

 ゆきえは、思わず笑ってしまいました。

「いつものようになさっていれば、新しい店でも大丈夫でございますよ」

 これに登志夫は、少し苦笑したようです。

「いやはや、君は楽天家らしいね。まあ僕は確かに、常日頃からおじさんに向かってずけずけと物を言ってきたからね。だからこそ、いざこうして『任せたよ』って言われると、逆にどうも調子が狂ってしまう。思わず弱音も言いたくなるってものだろう?」

「若旦那様が、それほど気弱とは思いませんでした」

「うん! 僕の正体は小心者さ。だから表向き、めいっぱい利口そうに見せてるんだ」

 日頃と違い、率直な物言いに、ゆきえは少々驚きました。しかし気負う所のない登志夫の言葉には、かえって誠実な人柄がにじみ出るようで、むしろ好ましく感じます。それにしても、こんな大事な話を自分のような者に漏らす事自体、驚きです。

「あの……それより、私なぞに話してよろしいのですか?」

「ははは! 君だから良いんだ。このところずっと新しい店のことばかり考えていたら、すっかり気鬱になった。だから誰かに愚痴りたくなったんだ。
「けれど、まさかおじさんには愚痴れないだろう。おばさんにだって、おじさんに伝わることが分かっているからダメ。番頭さんには、みっとなくて言えないし。
「いろいろ考える内に……ああ、俺には、気楽に愚痴を言う相手もいないんだと、すっかり落ち込みそうになったところ、ふと君の顔が浮かんだと言うわけだ」

「それは嬉しゅうございますが、私なぞ、お役に立てませんよ」

「それは違う! 君が聞いてくれることで第一に、僕が元気になる! 」

 これには思わず、ゆきえもつられて笑ってしまいました。

「有難いお話しですが……それより、もっと気楽にお考えになってはいかがでしょう。たとえば 若旦那様のお好きな。科学の実験のようなものとお考えになっては? 」

 すると登志夫の表情が、ぱっと明るくなりました。

「そうか、新しい店は科学の実験か。そう言われてしまうと、自分でも出来そうな気がするよ。ははは君は、実に面白いことを言うね。科学の実験か!」

「そうですとも。若旦那様なら、きっと良いお店になります。それにお引き受け下されば、大旦那様もご安心だと思いますよ」

 これに登志夫は大きくうなずきました。そして屈託のない笑顔で聞き返しました。

「ところで君も、僕に付いて来てくれるだろうね?」

 あまりに突然のことで、返事出来ませんでした。登志夫の罪のない笑顔に、ゆきえの心はきゅっと締め付けられました。そして仕事が溜まっていることを理由に、曖昧に一礼すると、登志夫の座敷を急いで後にしました。

 

 

 やがてどこから広まったのか、新店舗の噂はあっという間に広まりました。 ゆきえと年の近い従業員達はみな、新しい店に移れることを期待してソワソワしていました。しかも賑やかな隣街に開店することも、若い従業員にはことさら魅力的でした。でもゆきえは、これは良い機会だと思いました。自分はこのまま大旦那様のおそばにいて、元どおりに慣れ親しんだ仕事が続けられたらよいと考えました。そうすれば登志夫と顔を会わせて、毎日のように辛い思いをすることもなくなるのです。
 そうするうちに衣替えも終わり、梅雨の走りの雨が、生暖かくそぼ降る日のことでした。ゆきえは旦那様に呼ばれました。旦那様のお座敷に行くと、座卓を挟んで、旦那様と登志夫が気難しい顔をして座っておいででした。座卓に広げた書面を見れば、従業員名簿です。いったい何事かと思っていると、登志夫がさっそく尋ねてきました。

「ゆきえさん、新店舗の件で相談したいことがある」

 ゆきえは黙ってうなずきました。これに登志夫は、少し笑顔になりました。

「君にはぜひ、新しい店に来て欲しい。叔父さんは、ゆきえさんがこの店にいてくれないと困るとおっしゃるが、僕だって君が居てくれないと困る」

 すると今度は、旦那様が重々しい口を開きました。

「わしとしては、おまえに残って欲しいんだがな。なにせ、お前を気に入ってくれとるお得意さんは多いからな。ところが、登志夫もこうして譲らない。
「そこでともかく、お前の考えを聞く事にした。おまえはこの店に残るのと、新しい店に移るのと、どっちを希望するかね?」

 これを聞いて、登志夫が身を乗り出しました。

「そりゃあもちろん、僕に付いてきてくれるよね?」

 ゆきえは言葉に窮しました。本当は一も二も無く、登志夫について行きたかったのです。しかし、ゆきえは既に心に決めていました。しばらくあって、ゆきえは重い口を開きました。

「若旦那様。ありがたいお申し出ですが、わたしはこの店に残ります。そしてずっと、大旦那様のおそばに仕えたいと考えています」

 するとたちまち登志夫は不機嫌になりました。実直なぶん顔に気持ちが出る人でした。

「いったい、どうしてなんだい? 僕は絶対に、君が新しい店を手伝ってくれると信じていたのに! 新しい店の、何が気にくわないんだい? いや、それとも、僕では役不足とでも?」

 ゆきえは、あわてそれを打ち消しました。

「いいえ! そんな、滅相もありません。私の様な不調法者は、新しい店では邪魔になるだけです。むしろ慣れたこのお店に置いていただいた方が、ご迷惑をかけずに良いと考えただけです」

 登志夫はこれにまた、ムッとしたようです。

「馬鹿なことを言うんじゃないよ!
「君が無能というなら、いったい誰に新しい店を任せようと言うんだ!」

「ご許し下さい。私の決心はきまっておりますので。」

 これに登志夫は、ますます不機嫌になりました。ゆきえと登志夫の間の空気が、どんどん険悪になって行きます。登志夫は完全に怒ったようで、もはや何も言わなくなりました。本心が打ち明けられず、怒るのをただ見ているのはとてもつらいことでした。ゆきえは悲しみで心が張り裂けそうでした。あやうくもう少しで、涙が落ちそうになりました。すると幸いなことに、そこで旦那様が仲裁に入りました。

「まあまあ登志夫。そうもつんけんすることもなかろう。いちおう本人に確認しようといったのは、そもそもお前だろう」

 旦那様は、明らかに嬉しそうでした。しかし苦虫をかみつぶしたような表情の登志夫は、ゆきえに冷たく言いました。

「もう良いよ。仕事に戻りなさい!」

 ゆきえは一礼すると、沈んだ気持で仕事に向かいました。その日の午後、奥様の用の後、廊下で再び登志夫とすれ違いました。気まずく横をすり抜けようとすると、登志夫はゆきえを引き止めて、怒ったように何かを差し出しました。それは新聞紙の包みでした。その中を見ずとも、ゆきえには推測できました。でも今のゆきえには、それを受け取ることが出来ません。すると登志夫はゆきえから顔を背け、辛そうにこう言うのでした。

「頼むからこれ以上、僕の気持ちを無駄にしないでくれ!」

 そしてゆきえに包みを押しつけると、足早に去って行きました。そっと新聞紙を開けると、紅のサクランボが輝いていました。それを見たゆきえは仕事場に戻れませんでした。そのまま裏庭に回ると、ひとりでそっと泣き崩れました。心の中は悲しみでいっぱいでしたが、ゆきえはこれで良いのだと思いました。

 

 

 旦那様夫婦から、登志夫との縁談話を持ちかけられたのは、そんなことがあった一月後の事でした。なのでゆきえは、その話がにわかに信じられませんでした。天にも昇る想いとはこのことで、その嬉しさは言葉にできぬ程でした。ゆきえの目からは、ぽろぽろと大粒の涙があふれて止まりませんでした。しかしあまりにひどくゆきえが泣き出したので、旦那様と奥様は少々あわてたようです。それでゆきえに優しく、こう言ったそうです。

「そんなに嫌だったら断っても良いんだよ。登志夫には良く言って聞かせるからね」

 旦那様と奥様の、この思いやりのある言葉に何と答えたか、もはやゆきえは思い出せません。ただ何度も何度も、繰り返したそうです。

「有り難うございます。有り難うございます!」

 

 ところで、この縁談話があってしばらく後のことになります。奥様と登志夫は奥座敷の洋館で、登志夫の荷物を整理しておりました。その傍ら奥様が、登志夫にこの様なことをお聞きしたそうです。

「登志夫さんは、ゆきえのどこがが気に入ったのかい?」

 登志夫は、ちょっと照れくさそうに話し始めました。

「実は、始めてゆきえさんに会ったのは、私が三高(今の九州大学、教養部)を卒業する前の年でした。丁度サクランボが熟れる頃、私がここに来ていた事がありましたでしょう?」

「ああそういえば、そんな事があったわね。たしか就職のお話しだったかしら?」

「そうです、私は卒業したら直ぐにこの家で働こうと考えていました。しかし、博多の商社からの誘いもあって、そちらに就職した方が良いか迷って、叔父様に相談に来ましたよね」

「そうそう、それで旦那様は、出来ればその商社で、しばらく仕事を学んだ方が良いと言うことで……で、そのことがゆきえに、どう関係があるのだい?」

「叔母さん、この家の裏庭に、サクランボの樹があるだろう?」

「ええ、それがどうしたの?」

「私がやって来たあのときも、ちょうどこの庭のサクランボが熟れ頃でした。なので本を読みながら、明日にでも少しサクランボを採ろうかと考えておりました。
「ところがふと気が付くと、ひとりの少女があの桜の樹の下で、サクランボをじっと見上げていたのです。全く驚きましたよ。突然、庭から湧いたように現れたものですから。後でそれがゆきえさんという、新しく入った子だとわかったんですけどね」

 普段は、この商家の奥屋敷にまで使用人が入って来ることはめったにありません。登志夫の方も、桜の木の下にいきなり現れたゆきえを見て、驚いたのも無理はありませんでした。奥様は、その話に興味を惹かれたようです。

「おやおや、そんなことがあったの」

「叔母さん、笑わないで聞いて欲しいんだけど……」

「何だい、私は何を聞いても笑いませんよ」

「実は、桜の樹の下に、夕日に赤く染まって立っているゆきえさんを見たとき、サクランボの精が現れたかと思ったんです」

 これを聞いた叔母は、目を丸くしてみせました。

「おやまあ! ずいぶんと惚れ込んだもんだねえ!」

 これを見た登志夫は、あわてて、顔を真っ赤にしました。

「ひどいなあ叔母さん! 今、笑わないと約束したばかりじゃないですか!」

「ああつい、ごめんなさいね。というとあなた、一目惚れだったんだねえ。
「で、その時、何か話したのかい?」

「いえ。私を見て、まるで小鳥のように逃げて行ってしまいました」

 それだけ言うと登志夫は、もう何もこれ以上は言いたくないかのように、口をつぐんでしまいました。本当は、先ほど自分が話したことがとても照れくさく思えて、顔が真っ赤になっているのを叔母に気取られまいとしていたのです。

 

 登志夫とこの商家との関わりは、小学校の頃にまでさかのぼります。登志夫の母親は、体が丈夫ではありませんでした。特に子供の頃、長いこと入院しておりました。一方、登志夫の父親は商船会社の仕事をしておりましたので、しょっちゅう日本と海外とを行き来しておりました。それで登志夫の家は、両親がいつも留守がちでした。登志夫には年の離れた兄が3人おりましたが、みな全寮制の学校に入っていたので、家には登志夫だけが取り残されておりました。
 これを見かねたこの商家の叔父夫婦が、小学校の間、ずっと登志夫の面倒を見ていたのです。旦那様夫婦は息子さんがひとりいたのですが、早くに病気で亡くなっていました。なので登志夫は、実の息子のように可愛がられました。それで登志夫の方も、自分が大人になったら恩返しに、この商家で働こうと考えるようになったのです。
 しかしまだ幼い頃の登志夫は、そんな余裕もありませんでした。早くに父母と引き離されて、いつも心細い毎日を過ごしていたのです。そんな時から登志夫が使っていた部屋が、離れの洋館でした。部屋に面した中庭には、九州では珍しいサクランボがなる桜の樹が植えてありました。初夏に実るサクランボは、毎年心躍る楽しみの一つだったのです。昔を懐かしく思い出す登志夫の視線の先に、今も変わらず桜の若葉が眩しくきらめいて、さわさわと風にそよいでいました。その様子が何故か登志夫には、笑っているように見えました。

 


<以下、続く>


「ララバイ」目次に戻る 前のページ に戻る 続きを読む