もっともっと「ララバイ」

その五、落石

 さて、こうしてあっという間に、ゆきえの縁談は進みました。晩秋のある日、ゆきえの育った村では豪勢な結納を携えた行列がやって来たので、それはもう大騒ぎとなりました。母に次いで再び玉の輿となったゆきえの縁談に、誰もが皆驚き、そして喜びました。でも、ことさらに喜んだのはゆきえのおじいさんとおばあさんでした。二人とも、「長生きはするもんじゃ」と涙を流して喜んでくれたそうです。

 やがて翌年の春、ゆきえの婚礼の日がやって来ました。婚礼は、まさしく満開の桜の時期に執り行われました。桜の香りに春の日差しがまぶしい、実に美しい日だったそうです。ゆきえは自分の育った家で、やがて夫となる若者が迎えにやって来るのを待っていました。ゆきえは花嫁衣装に身を包み、仏壇の両親にごあいさつをしていました。この時おばあさんは、嬉しそうに目を細めて微笑みました。

「あた(あんた)はホントに、お母さんそっくい(そっくり)じゃがぁ!」

 そのように言われて、ゆきえは始めて自分をおいていった母親のことを、もう忘れよう思ったのでした。やがてゆきえに新郎のお迎えが来て、ゆきえは慣れ親しんだ我が家を後にしました。ゆきえが家を振り返ると、裏山の曙桜は満開でした。その花は晴れ渡った青空を映して、深く鮮やかな藍色の影を宿していました。そして、ゆきえの新しい門出をお祝いするかのように、ゆきえとゆきえが育った家に、薄紫の花吹雪を一面に降り注いでおりました。すさまじくも美しい光景を見つめるゆきえの目には、幼い頃、桜と共に過ごした思い出が次々と蘇ってきます。いつしかゆきえの目からは、止めどなく涙が流れて落ちるのでした。
 ゆきえは、これまで自分を見守ってくれた桜の樹に、深々と頭を下げました。なりゆきを見守っていた村の人たちは、ゆきえのお辞儀に答えて、お辞儀をかえしました。この時村の人々の誰も、ゆきえが桜の樹にお辞儀をしたとは思いもしなかったことでしょう。深い藍色の影を宿した花吹雪の中で、ゆきえは、慣れ親しんだ村の暮らしに別れを告げました。

 

 ところが、光もあれば闇もあるのが人の世の常。めでたくも豪勢な婚礼が終わった一年後、なんと、おじいさんが亡くなってしまいました。ある朝おばあさんが気が付くと、布団の中で既に冷たくなっていたそうです。おじいさんは、眠るように逝ってしまったのです。おじいさんが亡くなったと聞いてゆきえは、それはそれは悲しみました。ゆきえは、おじいさんが大好きでしたから。例え貧しく両親がいなくとも、いやそうであったからこそ、祖父母との仲むつまじい暮らしはゆきえにとってかけがえのない宝物でした。でも、全てのことをやり尽くしたかのような、おじいさんの安らかな最期の様子だけが、唯一の心の救いでした。

 ところがその一年後、今度はおばあさんの体調が良くない日々が続いていました。やはり、おじいさんを亡くしたことで、心の支えを失ったからでしょうか。ゆきえはおばあさんと離れて暮らしているだけに、毎朝、毎晩、心配で気が気ではありませんでした。でも幸いなことに、近所の方々が面倒を見てくれていました。登志夫はおばあさんに、これを機会に町に下りて同居するように強く勧めていました。しかしおばあさんは、決して村から離れようとはしませんでした。仕方なくゆきえは登志夫の許しを得て、なるべく実家に戻っては、おばあさんの様子を見るようにしていました。

 

 

 そうした、ある日のことでした。この年は梅雨の入りが遅かったわりに、梅雨明けを間近にしてから、ひどい土砂降りが続いていました。ゆきえは実家の様子を見るために、天候の良い日を選んで村に帰ることにしました。
 これに登志夫は、あまりいい顔をしませんでした。実はこの時、ゆきえのおなかには赤ちゃんがいたのです。ゆきえは既に、母親が自分を生んでくれたのと同じ年齢になっていました。ゆきえも身重ではありましたが、おばあさんの事も気になります。登志夫とて、おばあさんの様子が気にならない訳ではありませんから、しぶしぶ、ゆきえが帰ることを承諾しました。

 こうしてゆきえは、天気の良さそうな日を選んで実家に戻りました。すると二、三日も経たぬうちに、再び村は激しい豪雨に見舞われました。そしてやがて午後になって、村の青年団の人たちがゆきえの家にやって来ました。何でもこのところの大雨で、方々の村で災害が起きているということでした。しかも恐ろしいことに、ゆきえの実家の裏山も崩落する危険性があると言うのです。村の青年団の一人に、ゆきえと遠縁の男がおりました。この男は、普段からゆきえのおばあさんの様子を見てくれていた村人のひとりです。その男が、こう申し出ました。

「ゆきえさん。いっそ、おばあちゃんを家に預けんか?
「うちはここより狭いが、かえってその方が、目も行き届くかもしれん」

 遠縁の男の家は、沢向こうの丘の上にありました。なのでそこまで避難すれば、確かに安心な様に思えました。ところがおばあさんは、相変わらず頑固に首を横に振るのです。

「私はね、この家を離れたくなかっとよ!」

 いずれ、ともかくものすごい豪雨のこととて、遠縁の男の懸念はもっともなことに思えました。なのでゆきえは、とりあえず今夜だけと言う約束でおばあさんを説得しました。そしてその夜はゆきえも一緒に、遠縁の男の家に避難することを決めました。
 さて、遠縁の男に背負われて家を出る時、おばあさんがゆきえに手を振って、何かをしきりに伝えようとしています。ゆきえには、おばあさんの言葉が良く聞き取れませんでした。身につけた蓑傘に激しく叩きつける雨のせいで、何を言っているのか全く聞き取れなかったからです。何事かとゆきえが側に寄ると、おばあさんは驚くような事を言いました。

「この前からあそこに、はつえが来ておっと」

 おばあさんが指す方角は、曙桜の樹が立っている裏山の高台でした。ゆきえはぎょっとして桜の樹を見上げました。「はつえ」というのは、とっくに亡くなったはずの、ゆきえのお母さんの名前です。ゆきえは思わず菅笠のひさしを指先で持ち上げ、たたきつける雨に目をすがめて裏山を見上げました。しかしこんな悪天候の日に、誰かがそんな所に居るはずもありません。あたり一面 、篠突く雨が激しく降っているのです。山深い村には、早くも森の奥から夕闇が迫りつつありました。裏山の高台には白く煙る雨のカーテンを透かして、おぼろに黒々と、不気味で巨大な桜の樹のシルエットが見えています。それは、ゆきえが普段慣れ親しんできた桜の樹とは、全く違う姿でした。ゆきえの背に、ぞくりと寒いものが走りました。

「おばあちゃん、なに言うとるの。しっかりせんと!」

 とりあえず元気づけるように、ゆきえは明るく笑ってみせました。しかし同時に、言いしれぬ不安が沸き上がって来るのを抑えることが出来ません。ふと、おばあちゃんも、もう永いことないかもしれないという思いが浮かび、あわててその考えを打ち消しました。

 さて、その翌日になっても土砂降りは止みません。村人の警告に従って、ゆきえはしかたなくおばあさんと一緒に、そのまま遠縁の男の家の世話になっていました。ようやく実家に戻れたのは、避難してから三日後の事でした。この日やっと待望の青空が見え、初夏の太陽が久しぶりのまぶしい姿を現しました。近辺にさほど大きな災害が起きなかったことで、村人達はみなホッとした様子です。そして家を出て、それぞれの田や畑の様子を調べたり直したりと、忙しく立ち回っていました。

 ゆきえも夜が明けると、早々に家の様子を見に戻りました。それまで本当に気をもんでいましたが、我が家に着いてようやく安堵のため息を漏らしました。この連日の豪雨にも関わらず、ゆきえの実家は無事でした。裏山もどうやら崩落せずにいてくれた様です。ゆきえは、昼前にいったん遠縁の男の家に戻って、おばあさんに家が無事であることを伝えました。そして昼過ぎになって再び、一人で実家にもどって行きました。昨日までの横なぐりの雨が、家の中の思わぬ所を濡らしていました。ゆきえは一生懸命に家の片づけをしましたが、そのうちにとうとう夕方になってしまいました。ゆきえは、これを機会におばあちゃんは、遠縁の男の家に置いてもらった方が良いかもしれないと思い始めていました。なのでゆきえは、そのまま一人で実家に泊まることにしました。

 

 

 その夜、深夜になってからのことでした。ゆきえは不思議な夢に起こされました。誰かが、ゆきえを呼んでいるのです。

 ……それは、女の人でした。

 おぼろげな意識の中で何故かゆきえは、それが母であるという確信がありました。あまりに不思議な夢だったので、ゆきえは暗闇の床の中で、うとうととその意味を考えておりました。
 夢の中でゆきえの母は、何かをしきりに伝えようとしていました。しかしそれが何であったのか 、どうしてもゆきえには分かりませんでした。なのに、言いしれぬ不安だけがいつまでも消えません。なので眠ることも出来ず、そうしてまどろんでいたのです。

 

 と突然、不審な地鳴りを感じて、ゆきえははっと体を起こしました。何かが地響きをたてて、こちらへ近づいて来る気配がします。裏山の木々が、ばきばきと折れる恐ろしげな音が聞こえ、しかもそれがどんどん近づいて来るのです。それを聞いてゆきえは、心底から震えました。一体何が起きたのか分からないけど、とてつもない危険が迫っている予感がありました。とっさに寝床から身を起こし、逃げることを考えました。
 しかし、どこへ逃げるか考えるいとまもあればこそ、たちまちものすごい轟音と共に激しく家が揺れました。大地が震えるたびに、棚という棚からあらゆる物が落ちて弾けます。家のあちこちで、瀬戸物の割れるけたたましい音が響きました。ゆきえはたまらず立ち上がりましたが、ドンという床からの突き上げにばったりと倒れました。その直後、獣の雄叫びに似たゾッとする咆哮と共に何かが折れ、同時に、納屋のあたりで凄まじい爆音が響きました。
 気が付くと、あたりには、もうもうと砂煙が舞い上がっています。この間、あっという間の出来事でした。やがて轟音は静まり、何事も無かったかのように静寂が戻りました。ときおり闇の奥で、小石が滑り落ちる乾いた音だけが、からからと鳴り響いていました。

 あまりの恐ろしさに、ゆきえはしばらく立つことも出来ませんでした。爆音のせいでまだ、じんじんと耳鳴りがしています。かなりの時間が経って、ようやくゆきえは寝床から立ち上がれました。でも膝ががくがくと震え、足もとはおぼつかない状況でした。しかも畳の上には、雑多な物が無数に転がっていて、歩きにくいことこの上ありません。
 ゆきえは慎重に、爆音が聞こえた納屋の方へと行ってみました。納屋は母屋とつながっているので、ゆきえが寝ていた部屋から土間づたいに歩いて行けるはずでした。ところが、納屋へは行けませんでした。土間から先は、家が押しつぶされていたのです。しかもなお、崩れた梁が時折、不気味なきしみ音をたてていました。そうなると、その先は恐ろしくて、とうてい行くことなど出来ません。この夜は月もなく、全くの暗闇でした。なので一体何が起きているのか、ゆきえにはさっぱりわかりませんでした。ろうそくを灯そうにも、辺り一面、家中の何もかもが飛び散ってしまいました。手探りで探そうにも、とうてい無理なことです。結局、為す術もなく、ゆきえは夜明けまで、ただ布団の上で震えていたそうです。

 

 

 やがて夜が明けて、騒々しい人の声でゆきえは目を覚ましました。家の外から、ゆきえの名前を呼ぶ声が聞こえます。どうやら疲れていたのか、ゆきえは再び眠ってしまった様です。寝床から身を起こして納屋の方を見ると、破れた屋根のあちこちから朝日が差し込んでいました。それを見たゆきえは、呆然となりました。土間から先に見慣れた納屋はなく、ただの木くずの山になっていました。昨夜の悪夢は、決して夢ではなかったのです。

 再び大声で、ゆきえを呼ぶ声が聞こえました。何故か分かりませんが、庭先に大勢の人が集まっている様子です。ゆきえは大急ぎで着替えると、庭に面した部屋へ向かいました。ぴったり閉じた雨戸に手をかけると、梁がゆがんで開けにくくなっています。苦労してこじ開けると、まぶしい朝日が家の中に差し込んで来ました。
 ゆきえが雨戸の隙間から顔を出すと、「おおっ!」という歓声が聞こえました。そちらを見れば二十人程、村の青年団の男たちが中庭におります。ゆきえを見つけると、全員、必死な形相で駈け寄ってきました。 中でも遠縁の男が、真っ先に飛び出して来ました。

「無事かっ! ゆきえさん!」

 ゆきえは、訳が分からないまま、あいまいに返事しました。

「は、はい! 何とか。」

 遠縁の男は、咳き込むように尋ねました。

「け、怪我はなかかっ?」

 ゆきえは、雨戸の隙間から半身を出して答えました。

「は、はい。この通り、無事でした」

 それでも遠縁の男は、まだ必死の形相で尋ねます。

「そ、それで……あ、赤ん坊は、大丈夫か?」

 ゆきえは、自分の膨らんだお腹をさすりながら言いました。

「うん。無事らしか。」

 するとようやく、青年団の男達はホッとした様子でした。

「ああ〜、やれやれ! 良かった、良かった!」

 そして男達は、顔を見合わせながらうなずきあっております。 ゆきえには、いったい何が起きたのか、未だにさっぱり要領を得ません。その様子を見て、遠縁の男は手招きしました。

「ゆきえさん、こっちへ来てみんさい。」

 ゆきえは雨戸の隙間から庭に下りました。遠縁の男は、納屋の外へ案内する様子です。後からついて行くと、その先に驚くべき光景がありました。なんと、人の背丈の二倍ほどもある黒々とした大岩が、木くずの山の上に乗っかっていました!
 裏山を見上げると、黒々とした無惨な縦筋がはっきりと見えました。あれこそ昨夜、この大岩が転がってきた来た証です。どうやら山頂近くにあった大岩が、この長雨で地盤が緩み、ここまで落下したらしいのです。ゆきえは昨夜の、木々がなぎ倒される恐ろしい音、その後の凄まじい爆音を、ありありと思い出しました。そして体が震えるのを抑えることが出来ませんでした。

 そのゆきえに、遠縁の男は首を振ってこう言いました。

「ゆきえさん、あんたが生きてるんは奇跡じゃ」

 ゆきえは、その意味が良く解らなかったので、黙っていました。すると遠縁の男は、ゆきえに小さく手招きをしました。ここから瓦礫を超えて、家の裏手に回る様子です。やがて裏庭で立ち止まり、遠縁の男は裏手の高台を指しました。男の指さす先を見て、ゆきえははっとしました。長年親しんできた、曙桜の姿がありません! なんと桜の樹は、途中からばっきりと折れていました。そして、毎年春になると美しい花を咲かせていた桜の幹は、今は悲しげに斜面 に横たわっておりました。それは、あまりに無惨な曙桜のなれの果てでした。あまりに痛々しい姿に、ゆきえは激しい衝撃を受けました。そして、何か大事なものを失ったと確信したのです。ゆきえの目からは、はらはらと涙がこぼれ落ちました。

 泣き崩れるゆきえに、遠縁の男は気遣うように声をかけました。

「ゆきえさん、あんたは子供ん時からあん桜が好きじゃった。さぞかし残念じゃろ。
「じゃがのう。あん桜ん樹があったがために、あんたは救われたとじゃ。大岩は桜ん木に阻まれて母屋の直撃を避け、納屋へ落ちたんじゃ」

 そう言われてみると、大岩が山から転がって来た跡は母屋へと真っ直ぐに続いていました。ところが、家の手前に曙桜が立ち塞がっていたので、その太い幹に衝突して方向を納屋へと転じたのです。もし大岩が母屋を直撃していたら、確実にゆきえは生きていませんでした。それを見たゆきえは、誰にともなくつぶやきました。

「桜の樹が、私を守ってくれたんだ!」

 これに遠縁の男も、大きくうなずきました。

「ああそうじゃ、あん桜ん樹は昔から、こん家の守り主じゃった。
「そんで、あんたを守ってくれたんじゃ!」

 涙ながらにゆきえは、折れた桜の樹に向かって手を合わせるのでした。


<以下、続く>


「ララバイ」目次に戻る 前のページ に戻る 続きを読む