さて、落石事故のあったその朝、ゆきえに追い打ちをかけるように、重ねて悲しい出来事が起きました。青年団のみんなが、ようやく崩れた家の後始末を始めた頃でした。ゆきえのもとに、一人のおかみさんが血相を変えて飛び込んで来ました。誰かと思えば、ゆきえの遠縁の男の奥さんでした。おかみさんはゆきえを見つけると、話すのももどかしくゆきえの袖を引いてこう言うのです、
「おばあちゃんが! おばあちゃんが・・・!」
ゆきえの顔面から、たちまち血の気が引いて行きました。四日前、おばあちゃんを連れてここから避難するときに感じた、不吉な予感を思い出したからです。ゆきえは、拾い集めていた食器のかけらを放り出し、取るものもとりあえず表に飛び出しました。その後をあわてて、遠縁の男とそのおかみさんさんが追いかけました。しかし、ゆきえの必死な願いにも関わらず、その不安は現実のものとなりました。ゆきえがおばあさんの寝床に駆けつけた時には、既におばあさんは冷たくなっていました。どんなに叫んで揺り起こしても、 おばあさんが目を覚ますことは、二度とありませんでした。ゆきえはなすすべもなく、ただ泣き崩れるばかりでした。
おかみさんの話では、その朝、いつまでもおばあさんが起きてこないので不審に思ったそうです。なので様子を見に行くと、既に息はありませんでした。おばあさんもまたおじいさんと同じように、眠るように逝ってしまったのです。度重なる不幸に、遠縁の男は言葉少なく慰めの言葉をかけました。
「なんともむごか話じゃ。こげんも立て続けに不幸が続くとはの。
「まさに、 神も仏もなかっちゅうんは、こんことじゃ!」
おかみさんもまた気遣わしげに、ゆきえを慰めました。
「ゆきえちゃん。あんまり気を落とすっとじゃなかよ。これから産まれる赤ちゃんのこともあっとだよ。私らに出来ることなら、何でも遠慮せんと言うてはいよ」
その暖かな心遣いに、ゆきえは涙を拭い、しっかりとこう答えたそうです。
「何から何まで、ほんなことお世話になりました。
「でも私には、おばあちゃんの事は、何故だか分かっとったよ。だって昨日の夜、母が迎えに来てらしたもん」
この不思議なゆきえの言葉に、遠縁の夫婦は、思わず顔を見合わせました。しかしそれ以上、ゆきえに何か聞く気力もありませんでした。遠縁の夫婦にしても、ゆきえのおばあちゃんが亡くなったことは、とても悲しかったのです。
翌日になって、落石の知らせを聞いた登志夫が町から飛んで来ました。登志夫は、ゆきえの実家の悲劇を聞いて、居ても立ってもいられなかったようです。直ちに車を手配すると、夜が開けるのも待てずに家を飛び出しました。ところがそれにも関わらず、登志夫がゆきえの無事な様子を確かめられたのは、夕刻近くになってからでした。 豪雨のせいで、町からこの村までの途中は、何カ所も道が崩れておりました。なので時間がかかり、登志夫はそうとうにやきもきしたようです。しかし、ゆきえの無事な様子を見て安心したようでした。家に上がってゆきえの姿を見つけるなり、気が抜けたように畳にへたり込んでしまいました。
ゆきえも登志夫が来てくれたことを、本当に嬉しく思いました。あまりに悲しいことばかり続いたので、すっかり気落ちして、何も手が付けられずにいたのです。登志夫はゆきえの肩に手を置いて、言葉少なくねぎらいました。その言葉は短くても、ゆきえにはしっかりと優しさが伝わりました。なので思わず、それまでこらえていた涙がこぼれました。そして心から、この人が夫でいてくれて、良かったと思いました。
翌日からさっそく登志夫は、てきぱきと全てのことを運んでゆきました。なにはともかく、おばあさんの葬儀を済ませることが先決です。なので半壊したままの家で、あわただしく葬儀がとりおこなわれました。
残る最大の問題は、納屋を押しつぶした大岩を、どうやって始末するかでした。あまりに巨大な大岩は、横にどかすことさえ困難でした。遠縁の男が、大岩を手で叩きながら、ため息混じりにつぶやきました。
「これはやはり、はっぱ(ダイナマイトのこと)で割るしか無かろう」
その一言で、登志夫は直ちに町からはっぱ職人を呼び寄せました。やって来たはっぱ職人は、母屋を壊してしまわないように、慎重に大岩を破壊しました。それは、なかなか大変な作業でしたが、最終的に数個の塊に砕くことが出来ました。ところが、そこまで手間をかけて砕いたにも関わらず、瓦礫をその場所から退かすのがやっとでした。やむなく大きな岩の塊は、とりあえず庭の隅に置いておくことに決まりました。
大岩の次に、倒れた曙桜がかたづけられました。枝をひとつひとつ切り落とし、太い幹はいくつかに切り分けられました。こうした後に、倒木の引き上げ作業は、慎重に進められました。実は、倒れた桜の樹を斜面から引き上げるのも、なかなか危険な作業でした。 と言うのも、倒木がゆきえの家に落ちてしまわないように、配慮する必要があったのです。そもそも大岩が激突したとき、桜の大木がゆきえの家に向かって、まっすぐ倒れなかった事もまた、奇跡と言えることでした。このようにして大岩と、倒れた曙桜が片づいたおかげで、ようやくゆきえの家の修理が出来るようになりました。
それから後は、めまぐるしくいろんな事が過ぎてゆきました。
ゆきえの家の裏庭からは、山から流れ落ちて積もった土砂などが、たちまち持ち運ばれました。そして、崩れた裏手の高台や山道は、直ちに修復されました。この様な土木工事は大変でしたが、村の青年団が総出で手伝ってくれました。落石に痛めつけられた裏山の斜面も、営林署の人達によって手が入れられました。押し倒された木や、削られてむき出しになった山肌などは、放っておくとまた災害の原因となります。ですから倒れた木は山から引き下ろし、裸になった斜面には土止めの杭を打ったり、草を植えたり、植林したりなどされました。
ゆきえの家も、あっという間に改修されました。大岩は一瞬のうちに納屋を破壊したので、かえって母屋の被害は少なくてすみました。納屋も、以前より立派なものに立て替えられました。またこれを機に、母屋の建て付けの悪い雨戸やふすま、さらに傷んだ畳なども入れ替えられました。このことでゆきえの実家は、むしろ以前より立派な構えになりました。
やがて、おばあさんの四十九日法要も終わりました。諸々の後始末が一段落したところで、登志夫はようやく町へ帰る決心をしました。これまで既に、何度もこの村と町とを往復していました。その度に医者を連れてきたり、大工を連れてきたり、土木業者を連れてきたり、それはそれは目の回るような忙しさでした。しかしこの間、店の事はすっかり大旦那様に任せてあったので、そろそろ仕事に戻らねばならなかったのです。登志夫は、ゆきえの体のことを気遣いながら町へと戻って行きました。ゆきえには、まだ後かたづけが細々とあったので、もうしばらく実家に残ることになっていました。しかし実は、もう一つどうしてもやっておきたいことがありました。それは、曙桜の事でした。
村の青年団によって片づけらた倒木は、後日、製材業者を呼ぶ予定でした。今、裏の高台に立っているのは、人の背丈ほどの根っこだけです。それも、幹がギザギザに裂けた無惨な姿でした。これを放置することが、ゆきえにはとても出来ませんでした。空いっぱいに腕を広げていた立派な桜の樹影は、もはやありません。庭に立って屋根を見上げると、そこには広い空が見えるだけでした。しかも以前は、桜の樹で見ることが出来なかった裏山が、今は間近にのしかかるようにそびえています。
久しく家を守っていた存在が消えて、ゆきえはひどく不安になりました。 しかも薫り高く、はかなげな蒼い影を宿したあの花が二度と見れないのは、ひどく悲しいことでした。根っこが生きている限り、なんとか生き返らせて欲しかったのです。
裏山の整地が終わると早々に、桜の樹の様子を見るために庭師がやって来ました。そうしてもらえるよう、登志夫に頼んであったからです。以来、庭師はこの村まで通って、延命のため手当をしておりました。
さて、庭師が桜に手を入れを始めて、半月ほど経った後の事でした。昼下がりになって、この庭師がゆきえの家にやって来ました。ゆきえは庭の方におりましたので、庭師は、そちらの方に現れました。座敷に上げようとすると、庭師はここで良いと断りました。そして肩に担いだ道具箱を縁側に置くと、その横に自分も腰掛けました。ゆきえはあわてて縁側に、座布団とお茶の用意をしました。その座布団を、庭師は断りました。そして半身になって、縁側に座ったまま沓脱石の上に足を組み、器用な姿勢でゆきえの入れてくれた茶をうまそうにすすりました。
庭師は初老の、いかにも頑固そうで実直な感じの人でした。ゆきえは、庭師にたずねました。
「あの桜ん樹は、なんとか生き返るでしょっか?」
これに庭師は、おもむろに、こう答えました。
「う〜ん。そっさな、桜っち奴は、なかなかに神経質なところがあっとじゃ。
「まあさっしょり(とりあえず)、良さそな枝を選んで根っ子に接ぎ木をしたばってん、なんせ今は接ぎ木にはちっと季節はずれじゃ。
「まあ、上手く行っかは、半々っちとこかの」
ゆきえは、もう少し望みがあると思っていたので、かなりがっかりしました。それを見た庭師は、励ますように付け加えました。
「ああ、でもな。あの桜には間もなく、根っ子の横からひこばえがあっという間に生えて来っとじゃなかろか。そっちの方がむしろ、早く成長すっとじゃろ。
「 もともとあの桜は、強か樹じゃっと思います。じゃから、その頃の手入れさえ間違わんければ、まあ生き返っとは思いますな。あっしは、そんころにもまた様子を見に来っつもいでおりますんで、まあ安心してくらっせ」
これを聞いたゆきえに、ホッとしたような明るい笑顔が戻りました。すると庭師は、手に持っていた湯飲みを置いて、ふとゆきえに向き直りました。
「ところでじゃ、もうひとつ気になっこと、あったとじゃ」
その言葉にただならぬ気配を感じて、ゆきえは聞き返しました。
「気になること、でございますか?」
庭師は組んでいた足を下ろすと、横に置いていた道具箱を手元に引き寄せました。そしてそれを開けて、何かを取り出そうとしておりました。どうしたことかと見れば、それは、何物かを厳重に巻いた紫色の風呂敷包みでした。あまり大きくはなく、庭師のごつく幅広い両手の平に収まるくらいの小振りな包みです。庭師はその風呂敷包みを手に取り、こう言いました。
「ふむ、そんこつばってん。まあ、不思議かこともあっと。実は先日来、ギザギザに折れっちょった幹に鋸を入れっせえ、切断面を養生しておったっとじゃ。ほいがな……」
庭師は、そう言いながら何度も首を傾げておりました。そして続けて、このようなことを言いました。
「あん桜ん樹には虚(うろ=空洞のこと)があっての、その中に何やら入っとるようだけん取り出して見たんじゃ。そしたらば、ほれご覧なっせ、こげんかもんがあったとじゃ」
庭師は丁寧に、風呂敷包みを両手に持ち替え、額に押し頂きました。そして、その風呂敷包みをゆきえに差し出すと、それに手を合わせて拝むのでした。ゆきえは何事かと思い、その風呂敷包みをほどきました。その中には、五寸(約15cm)ばかりの、可愛らしい錫(すず)の観音様が入っていました。手に取ってみると金属特有のひんやりした感触では無く、何やらあたたかな優しい感覚があふれて出て来るようです。
ゆきえは、庭師に尋ねました。
「これは一体、どぎゃんかことでっしょ?」
庭師は、首をかしげました。
「さあって! あっしにはさっぱりで。
「でもな、たま〜にあっとです。こげんことがの」
「たまに、と申しますと?」
「神社やお寺の、何年も経ったようなご神木の中に、こげんして仏様がおいでになっことがあっとです」
「それは、何故にでございましょう?」
「おそらく誰かが、木の幹を削った穴や、自然に出来た虚(うろ)の中に、何かを祈願した仏様をおまつりしたんじゃなかでしょうか。そいが年月が経つに従い、やがて虚がふさがれ、仏様が木の幹ん中に取り込まれてしもうた訳じゃあなかでしょうか。
「あっしらは商売柄、たまにこうした話を聞くことがあっとです。そげな仏様は、大層有り難かということで、大抵はその神社さんやお寺さんに、もう一つお堂が建つことになっとです」
「そうでしたか。」
ゆきえはこの話に、何か心に引っかかるものがありました。その表情に気づいたかどうか分かりませんが、庭師はこう言ってまた首をかしげました。
「じゃけんど、不思議かこともあっと。あそこは神社でも、お寺さんでもありまっせん。一体どなた様が、こぎゃんかことしたとでしょうねえ?」
これにゆきえは、独り言のようにつぶやいたそうです。
「お母さんかもしれない」
確信はありませんでしたが、なんとなくゆきえにはそんな気がしたのです。庭師が帰ってからゆきえは、桜の樹から現れた不思議な観音様を仏壇に置きました。今度の事でも母屋が無事だったので、この仏壇も幸いに無傷でした。今の仏壇は子供の頃と違って、立派なものなっていました。登志夫が、ゆきえと一緒になってすぐに新調してくれたからです。
ゆきえは、蝋燭に照らされて穏やかにほほえむ観音様を、しげしげと見つめました。今回の落石事故は、きっとこの観音様が守ってくれたのだと思いました。そしてこの観音様は、何かとても愛しく大切なものに思えました。ゆきえは、仏壇の前にひざまづき、長い間両手を合わせていたそうです。
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