もっともっと「ララバイ」

その七、意外な訪問客

 さてしばらくすると、この観音様の噂はあっという間に村中に広まりました。あれほどものすごい落石事故で、桜の樹がゆきえの命を救った事さえ奇跡でした。しかもその桜の樹の中から、観音様がお出ましになったと聞いては、もはやただごとではありません。この話を聞いた村中の人々が驚き、そしてこの有り難い観音様を一目拝もうとやって来ました。さらにこの噂が元で、ゆきえにとっては、もっと困った事態になりました。今回の出来事が、どういう訳か新聞にまで載ってしまったのです。

 ある朝、遠縁の男が、ゆきえのところに駆け込んできました。

「ゆきえさん、大変かこつになったと!」

 遠縁の男は、挨拶もそこそこにゆきえの家に上がるなり、新聞を広げてゆきえに見せました。おどろいたゆきえが、何事かと新聞を見ると、男は、紙面のある部分を指しました。その記事を見て、ゆきえは目を丸くしました。 新聞には、このような文字が踊っております。

『近年稀に見る奇跡、桜観音が母子の命を救う!』

 その大げさな見出しに、ゆきえは、困惑気味に遠縁の男の顔を見返しました。しかし遠縁の男も、苦笑いして首を振るばかりでした。この新聞記事のおかげで、ゆきえのことはいっそう知れ渡ることとなってしまいました。やがては隣村のみならず、ゆきえも知らない遠方の町の人々までもがやって来る始末でした。
 ところが、ゆきえの家を尋ねてきた人々はみな、対応に現れたゆきえの楚々とした美しさに感じ入りました。そしてその大きなお腹、愛らしい錫の観音様のお姿を拝み、ついでに庭に置きっぱなしになっている落石、倒れた桜の樹などを見て回りました。それはもう、観光地巡りと変わらない状況でしたが、お客様達は、これらはまさしく新聞の記事通り嘘偽り無い奇跡であり、実に有り難いものを拝見したと、すっかり感激して帰って行くのでした。おかげでゆきえの噂は口づてに、ますます広まって行きました。

 見知らぬ人が、突然、ゆきえの家を尋ねてくることが、日々増えてゆきました。そんな訪問者が、多い日には十組以上もやって来ることもありました。色々と、後片づけに追われていたゆきえにとっては、全く有り難迷惑な事でした。しかし、人々が観音様を真剣に拝む姿を見るに付けて、ゆきえは、こうした人達を邪険に扱うことが出来ませんでした。誰かがやって来るたびに仕事を中断して、仏間に通してやっておりました。どうせ登志夫の元に戻れば、こうした辛抱強い来訪者の対応もいずれそのうちに終わるだろうと、ゆきえは気楽に考えていたのです。

 

 

 そんなある日のことでした。まぶしい太陽が青空に輝き、木々の若葉が目に痛いほどの初夏らしい日だったそうです。今や、方々に被害をもたらした集中豪雨が嘘のように晴れ渡った日々が続いておりました。やや汗ばむ陽気でしたが、若草の香る風がそよそよと心地よく吹いておりました。
 昼下がりになって、村人の誰も見たことの無い三人の僧侶が、バスから降りたちました。その中でも一人のお坊さんは、ちょっとお歳を召された様子で、ことさら立派な身なりをしておりました。しかしどこかお体が不自由なのか、若い僧侶二人に支えられて、ようやくここまでやって来たと言う様子でした。怪訝に思った村人が声をかけたところ、さる高名なお寺で厳しい修行を積んだ、徳の高いお坊様ということでした。そんな偉いお坊さんが、いったい何をしにこんな山村にやって来たかと、村人達はいぶかったそうです。するとお坊様達は逆に、ゆきえの家の場所を訪ねました。そこで村人のひとりが案内して、まっすぐにゆきえの家にやって来ました。

 このころ、ゆきえは家の片づけも終わりかけていたので、一両日中には自分も夫の元へ帰るつもりで支度を始めておりました。ゆきえが、祖母のことを案じてこの家に帰って来てから、かれこれ二月が過ぎようとしています。この間、思いもよらぬ不幸が続きました。おかげでゆきえは、とうとう盂蘭盆(うらぼん=旧暦のお盆のこと。大体八月の中旬頃)まで居続けることになってしまいました。明後日は、祖母の法要ついでに、登志夫が迎えに来てくれる手はずになっております。その後のことは、いろいろと世話になった遠縁の男に任せる手はずになっていました。

 思いも掛けぬ訪問者がやって来たのは、そんな矢先の事でした。玄関先で、どなたか若い男の人が呼びかける声が聞こえます。 たまたま納屋にいたゆきえは、また観音様を拝みに来た客かと思い玄関先に向かいました。ゆきえは、だんだん体を動かすのがおっくうになりつつありました。おなかは日に日に大きくなって、今はかなり目立つようになっておりました。無理をするのも、そろそろ控えた方が良さそうです。再び若い男の声が、家の中に呼びかけるようでした。ゆきえは、急いで返事しました。

「は〜い! ただいま、まいります!」

 玄関先に出迎えたゆきえは、予期しなかったお客様にびっくりしました。しかし、驚いたのはゆきえばかりではありませんでした。お客様に、お年を召されて立派な衣を着たお坊様が、若い僧に支えられて立っておりました。この老僧はゆきえの姿を見るなり、目を丸くしました。

「おおっ!」

 そう声を上げるなり、手を合わせてゆきえを拝むのでした。ゆきえはすっかり驚いて、老僧に尋ねました。

「あの、どちらのお坊様でございましょう?」

 これに僧侶達は、申し合わせたように、そろって合掌して丁寧に一礼しました。なので、ゆきえもあわてて板の間にひざまづいて、三つ指ついて丁寧にお辞儀して返しました。 老僧は自ら、こう名乗りました。

「拙僧は、高野から参った仁宗(にんそう)と申しまする。
「この度、子細あって、こちらへお邪魔いたしました」

 ゆきえは、わざわざ高野山からこんなところまでやって来たという話が、にわかに信じられませんでした。それで再び問いかけました。

「それほどのお方が、このような山奥の村に、何用でございますか?」

 するとこれに老僧は、にっと笑いました。

「その前にじゃ、拙僧に一杯、茶でも恵んで下さらんか」

 

 その人なつっこい物言いに、思わずゆきえは微笑んでしまいました。老僧は、立派ななりにしてはずいぶんと気さくな感じの老人でした。それがゆきえには、何だか好ましく感じられました。一体何事かとは思いましたが、それほど立派な方がこんな所までやって来たのは余程のことです。なのでゆきえは、僧侶達を家に上げました。すると老僧は家に上がるなり、ゆきえに尋ねました。

「その〜じゃな、桜の樹から現れたという観音様は、どちらにおわしますかな?」

 ゆきえは、老僧を仏間に案内しました。若い二人の僧達もその後に付き従って来ましたが、彼らは遠慮して仏間の手前の客間に座りました。そもそも小さな田舎家とて、四人が座るには、仏間はひどく狭かったのです。こうした田舎家は、法事などの行事の際にはたいてい、仏間と客間を仕切るふすまを取り払う造りになっています。ゆきえは、仏間と客間の間のふすまを大きく開いて、若い僧達にも仏壇が見えるようにしました。そして、仏壇のろうそくに火を灯し、線香に火をつけて香炉にさしました。部屋中に、線香の香りが立ちこめました。薄暗い部屋の奥にある仏壇が、ろうそくの炎でほのかに明るく照らされました。そして、この暖かなオレンジ色の光に、錫の観音像が浮かび上がりました。老僧はその可愛らしい観音像を見るなり、低くうなるようにつぶやきました。

「おおっ、これじゃ、このお姿じゃあ〜!」

 そして手を合わせ、深々と頭を下げました。ゆきえがお茶などを用意する間、老僧はしばらく観音様にお経を上げている様子でした。ゆきえは僧侶達に、お茶と冷たいお絞りを用意してあげました。これに老僧は、大層喜んだようです。読経が終わると、気持ちよさそうに顔を拭きながら、ゆきえにこんなことを言いました。

「りっぱな良い娘さんにおなりになった。もうじきお母様になられるのですな?」

 ゆきえは、この老僧とは面識がありません。自分のことを何故、知っているのか疑問に感じましたが、質問攻めにするのもはしたないことです。なので静かにうなずきました。

「はい」

 すると老僧は、何か思い出したかのように、ふっと笑顔になりました。

「本当に、お前さんは母君にそっくりじゃ!
「この家に着いた最初、おまえさんの母君が現れたかと思って飛び上がったわい!」

 そう言うと老僧は、からからと笑うのでした。これを聞いたゆきえは驚いて、老僧に尋ねました。

「お坊様は、私の母をご存じでございますか?」

「うむ、話せば長くなるがな」

 そして老僧は、客間越しに中庭に目をやりました。客間の庭先には、大きな柿ノ木がありました。その青々とした若葉が午後の日差しをさえぎって、涼しげな木陰を作っておりました。庭先はと見れば、月見草の花が満開です。月見草の花は新緑にいっそう際だって、初夏の陽光を受けて黄金色に輝いておりました。庭の隅に、先日落下してきた岩の不気味な塊が見えています。穏やかな昼下がりの日射しの中で、その黒々とした姿だけが重苦しい異彩を放っていました。老僧は、その石を指して尋ねました。

「裏山から落ちてきた岩とは、あれのことかな?」

「はい」

「ふむ」

 すると、しばらく考え深げだった老僧が、ふとつぶやきました。

「あの時も、月見草の美しい季節じゃったのう」

 そして一息入れて、ゆっくりとお茶をすすりました。

「ふうむ! なかなか、良いお茶じゃ」

 老僧はゆきえをふりかえって、にっこり笑いました。これにゆきえは、軽く頭を下げました。

「粗茶でございます」

 老僧はまた、無言で庭へと目を移しました。そしてしばらく昔を思い出そうとするかのように、じっと月見草の花を見つめておりました。ゆきえもまたその間、黙って側に座っておりました。心地良い初夏の風が、二人のいる部屋をさわさわと通り抜けてゆきます。その風に、仏壇に供えた線香の煙が、柔らかな香りを残しながら部屋の外に流れてゆきました。裏山から、尾根から尾根へと飛び去るコジュケイの鳴き声がきこえました。そのせわしない鳴き声は、徐々にはるか遠くの山向こうに消えて行くまで、静かな仏間にいつまでもずっと聞こえておりました。


(注):月見草について

 一般に言われているところの「月見草」とは、日本の場合、普通 は大待宵草(オオマツヨイグサ)の事。おおむね、梅雨が明けた7月から8月にかけて黄色い花が咲く。本来は、宵口から咲き始めるが、寒冷地では昼間でも咲くことが多い。
 似た花に、マツヨイグサがあるが、もうすこし小ぶりである。
 時に、間違って宵待草(よいまちぐさ)と呼ばれることも多い。
 なお、本来の月見草は同じマツヨイグサ科の花ではあるが、白い花。原産地はアメリカ。多湿な風土に合わないのか、日本で見るのは極めて稀である。


<以下、続く>


「ララバイ」目次に戻る 前のページ に戻る 続きを読む