もっともっと「ララバイ」

その八、神童

 やがて老僧は、ゆっくりと話し始めました。

「わしは、子供の頃から人とちょっと違う所があった。 いわゆる、霊感の強い質(たち)だったのじゃそれで、わしが十にもならぬうちに、わしの親は、このわしをさる修験道の行者につけて学ばせることにしたのじゃ」

 老僧は、庭の月見草をじっと見つめたまま話しています。ゆきえは、黙って老僧の横顔を見つめておりました。

「わしはこの師匠のもとで修行し、懸命に学んだ。やがて十五、六にもなった頃じゃ、わしは師と共にさる家の祈祷に出かけた。まだ四十そこそこの若き当主が重い病に倒れ、その平癒の祈祷に呼ばれたのじゃ。
「この家の者の申すに、名医と聞く医者には全て治療を頼み、名薬と聞けば八方手を尽くして様々な高価な薬を試したそうじゃ。 されどその甲斐もなく、今やその主の病も山場を迎え、もはやわしらが最後の頼みということであった」

 老僧は、湯飲みのお茶を一気に飲み干しました。ゆきえは、その湯飲みにまた新しくお茶をそそぎました。

「この家は裕福な旧家で、広い中庭があった。師はわしを手伝わせ、この中庭に護摩壇(ごまだん)をしつらえた。して早々に病平癒の祈祷が始まったのじゃ。祈祷は、朝から翌日の朝まで続いた。してわしは、ずっと師の後ろに控えておった。
「ところがまだ若かった故、明け方になる頃には、最早起きていることが辛いほどの眠気に襲われておった。その場に突っ伏して寝込んでしまいたいのを懸命にこらえて、まぶたが閉じようとする度に膝(ひざ)や臑(すね)をつねっては目をこじ開け、必死に護摩壇(ごまだん)に向き直すことを繰り返しておった。
「そうして、うんざりするほど長い長い夜をやり過ごそうとしておったが、何度目かに顔を上げ座り直したとき、ふと誰かが後ろに立っておる気配がした。でなんと、そちらを見れば、先ほどまで病で床(とこ)に伏せっておったはずの家の主が、庭を歩いておるではないか! わしはこれを見て、『やあこれでこの祈祷も無事終わるか!』と喜んだ。しかし考えればの、先ほどまで死にそうになっておった男が、たちまちこうして庭を歩きまわるのも何やら妙である。
「それでわしは不審に思い、『お休みになっていた方が、よろしくありませんか?』と問うた。じゃがこの男は、わしの言葉が聞こえた素振りもなく、なにやら家を出てゆこうとしておるではないか! ますます怪しげな事じゃ。されど我が師も家の者も、気づく様子がない。
「わしはそこで、やおら立ち上がって、『何処へ行かれまするか?』と声をかけた。ところがこの男、くるりと背を向けると、ますます急ぎ足で家を出てゆこうとしておるではないか! わしはとっさに、これぞこの家に悪さをなす狐狸の類かと考えた。これを絶対に逃がしてはならぬ思い、男に駈け寄ると着物の襟(えり)をつかんで、ぐいっと引き倒したのじゃ」

「その瞬間わしははっと目を覚ました。気が付けばすっかり地面に突っ伏して寝込んでおるではないか! それまで見ておったは夢であったのじゃ。あわてて急いで起きあがると、なんと目の前には、わしの師が目をむいて仁王立ちになっておる!
「わしはこの時、わが落ち度のゆゆしきに気付き、芯から縮み上がった。人の命を預かった大事な祈祷の席で、居眠りをするという大失態を犯してしまったのじゃ! てっきり叱られるものと観念して小さくなっておったが、師の言葉は意外なものじゃった。わしを抱き起こすと、両肩をがっしり掴んで高笑いした。『でかした、良くやったぞ!』とな!
「されどわしにしてみれば、何のことやらさっぱりじゃ。しばらくして、ようやくこの間の事情が解って来た。この家の主は、既に夜半には息を引き取っておった。それで師は『御霊返し(みたまがえし)』の修法を行っておったのじゃ。それがなかなか上手く行かず、師はもはやこれまでかと考えておったそうじゃ。
「ところが 夜明け近く、わしの魂が体を抜けだして、その男の魂を捕まえて現世に引き戻したということであった。わしが目を覚ますわずかばかり前、家の主人は息を吹き返しておった。それでもう、この家中が大騒ぎになっておったのじゃ」

 

 

 老僧は、ここまで一気に話すと、先ほどゆきえが新しく継ぎ足したお茶で、口を少し湿らしました。そしてしばらく目を閉じ、昔の出来事を思い返している様子でした。やがて再び老僧は、ゆっくり話し始めました。

「その日以来、わしの師は一躍、霊験あらたかな行者として名を馳せることなったのじゃ。連日、頼み事を依頼する者が引きも切らぬ 状態じゃった。じゃがやがて数年もして、時折、わしは師とは別に一人で加持祈祷を行うようになっておった。
「わしは、師のわしに対する待遇に不満を持つようになっておったのじゃ。師の名声は、わしのおかげと思いこんでおったのじゃな。しかも我が師は、まだ修行途中の身分とて、一人で修法を行うことを許さなかった。わしはそれが、大いに不満じゃった。
「このころのわしはすっかり天狗になっておった。 もともと霊感の強かった故、最早辛い修行をせずとも、諸々の神通力を得たと思いこんでおったのじゃ。故にほどなく、師のもとを離れてしまったのじゃ。今にして思えば我が師の懸念はよく分かる。当時のわしにもっと分別があったならばと思えて残念でならぬ。今さらながら、かえすがえすも無念じゃ 。

「それから、ずいぶんといろんな所をまわった。ささやかな霊力の施しで、何処に行っても多くの布施が集まった。何時しかわしは、すっかり小金持ちになっておった。となれば、人間ますます安易な方へと向いてしまうもの。本来、人助けを目的とする加持祈祷が、次第に子供だましでこけおどしの手品師へと変わっていったのじゃ。
「なんとなれば、その方が銭を稼ぐのに都合が良かったからじゃ。誰しもが摩訶不思議な手品を見て喜び、驚くほどの大金を貢いでくれたのじゃ。げに恐ろしきは人の業(ごう)と言うもの。やがて、かような生業(なりわい)に慣れるうちに自分でもいつしか、俗世の欲に真っ黒にまみれる人間になってしまっておったのじゃ」

 老僧は、閉じていた目を開けると、木々の梢を通して空をじっと見上げております。しかしその目は、今もはるかな昔を見つめているようでした。

「そうしたある日のことじゃ。この日も旅先の村で、いつものように様々な祈祷を施しておった。そしてその午後になって、一人のみすぼらしい女が訪ねて来たのじゃ」

 ここで老僧はおもむろに、ゆきえの方を振り返りました。

「その女は、はつえと名乗った」

 意外な母の名に、ゆきえは驚きました。

「それは、私の母のことでございますか?」

 老僧はゆきえに、ゆっくりとうなずきました。

「そうじゃ」

 意外な話に、ゆきえは素朴な疑問を口にしました。

「母が、何用でお坊様をお訪ねしたのでしょう?」

 老僧は、じっとゆきえの目を見つめました。ゆきえの面影の向こうに、はつえの姿を見ようとしていたのかもしれません。老僧の表情には、痛々しい悲しみがにじみ出ている様でした。しばらくして老僧は、ふっとため息をもらし、眩しい日差しに目をやりました。

「さてもこの女の頼み事とは、前代未聞のことじゃった。それは女が持参した観音像に、自分の魂を移してくれというものじゃった。これにはわしも驚いた。誰かを生き返らせて欲しいとか、自分の精気を取り戻して欲しいとか言う話はあったが、自ら魂を抜いてくれと言う話は聞いたことが無い。
「そもそも、これまでわしの所に来る依頼事と言えば、他人への恨み辛みを晴らして欲しいだの、何かにつけて助けて欲しいだの、楽をして金が欲しいだの、そういった虫のいい頼み事ばかりじゃった。知らず知らず、そんな連中を相手にするうちに、いい加減な修法を為すようになっておった。しかしそれでも十分、依頼が来るのじゃ。
「このような連中を相手にするうちに、何時しかわしも、金勘定だけを考える俗物になっておった。この時も、その貧しそうな身なりの女にわしが最初に問うた事は、金があるかどうかじゃった。女はその身なりに似合わぬ、少なからぬ金を差し出した。聞けば、来月に自分の婚礼があるので、その支度金だと言う。

「これから婚礼を前にして、己の魂を抜いてくれとは奇怪な話じゃ。しかもそのために、婚礼の支度金を使っても良いと申しておる。ますますもって不可解な話じゃ。わしは修法を行う前に、この女の事情を聞くことにした。今じゃから正直に申すが、事情を聞いたは、この女の身の上を案じた故のことでは無い。わしは様々な修法をしながら、同時に人間関係のいさかい事から巧妙に避ける術を経験的に学んでおった。それで、この女に関わることで、わしに及ぶ面 倒があっては困ると思ったのじゃ。まことに、今もって恥ずかしき保身の術じゃが」

 そう言って、老僧は力無くため息をもらしました。

「さて、女が涙ながらに話すには、死別した前夫が残した娘と別れて、新しい家に嫁入りせねばならぬと言う。幼い娘を一人置いて行くことなどとうてい出来ぬ。かといって、貧しきままの暮らしでは、その娘を満足に学校にも通 わせることが出来ぬ。しかも新しい嫁ぎ先は、娘とは一緒に暮らせぬ代わりに、養育費を出すと言うことじゃった。
「それでこの女は、ずいぶんと悩んだに相違なかろう。結局、娘の将来を考えて新しい家に嫁ぐ事にしたのじゃ。されど、まだ幼い娘を一人で置いて行くのは、何にも増してつらいことじゃった。その時たまたま、この地に来ていたわしのことを聞いて、女は結局、ある決心をしたのじゃ。それが先ほどの、観音像に自分の魂を移してくれという依頼じゃった。

「女は、さめざめと泣きながらこのように語ったのじゃ。この錫の観音像は、先祖代々家に伝わるもの。それで、この女の先夫が先の戦に赴いた折り、夫が無事に戻って来る様に、この観音像に祈願した。しかしその願いも空しく、夫は帰ってこなんだ。で、なれば! 今度は女が自らこの観音像に魂を移して、娘を見守りたいと言うことであった。
「なんとも、狂気の沙汰じゃった。この話を聞いたわしは、金だけいただいて、後は適当に修法をして女を帰すつもりであった。そこでこの女の魂ではなく、女の念だけを観音像に込める修法を行うことにしたのじゃ」

 老僧は、ここまで話すと、ふっと一息つきました。
 その様子にゆきえは、この事を話すのはつらいことに違いないと思いました。


<以下、続く>


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