老僧は、すっかりぬるくなってしまったお茶を、ゆっくりとすすりました。そして一息つくと、再び話し始めました。
「ところがじゃ、修法を始めて間もなく驚くべき事態が起きてしまったのじゃ。わしは錫の観音像を壇上に置いて、女を横に座らせた。して観世音菩薩の呪(しゅ=マントラとも言う)を唱え、修法を始めると、じきに異様な力がわしを捕らえ始めた。
「見れば驚いたことに、女の背後からどんどん金色に輝く気が立ち上ってくる。意図せぬ 事態に焦ったが、わしを捕らえた強い力が、思うようにさせてはくれぬ 。そうこうするうちに女から立ち上った金色の光は、やがて凄まじい光の爆発と共に、あっという間に観音像に吸い込まれて行ったのじゃ!
「しまったと思ったが、いかんせん打つ手も無かった。なまくらな生活にすっかり修行もおろそかになっておったわしには、もはやどうすることも出来なんだ。この出来事にわしはうろたえた。そもそも、かような事態は始めてのことであった。見れば錫の観音像は未だ金色の光を帯びており、その一方で、横には女が床に突っ伏しておるではないか。
「 もはや既に、女が事切れておるかと動転したが、幸いにまだ息はあった。しかし見るからに精気を失っておる。それで情けなくも恐ろしくなって、わしは金も受け取らず女を家に帰したのじゃ。そして、この件でのいさかい事を恐れ、逃げるようにこの地を後にしたのじゃ」
ここまで話すと、老僧は湯飲みを手にしたまま、深くため息を一つつきました。このことを話す様子に、深い悲しみの表情が見て取れました。記憶の奥深く沈ませていた心の古傷を、今かろうじて意識の表面に浮かび上がらせようとしているのです。ゆきえも始めて聞かされる母の姿に、少なからず動揺しておりました。はやる気持ちを抑え、身じろぎ一つせずに黙って老僧の話を聞いておりました。
「その後わしは、あの時わしが見たのは何であったかをずっと考え続けた。あの金色の光を思い出す度に、わしの心は深く痛んだ。じゃがのう、これまでの長年の加持祈祷の旅で、不思議な出来事は幾度もあった。時には悪しき物の怪に出会うて、命を落としかけた事さえもある。されど、あれほど強烈に心に残る出来事は、始めての事であったのじゃ。
「やがて風の噂に、はつえという女が亡くなったと聞いた。それを聞いたわしは、もう居ても立ってもおられなくなった。もし、わしがまっとうな修験の道を歩んでおったなら、あの女の命は救えたやもしれぬ。いや、絶対救えたはずじゃ!
「その思いが、一層、わしを苦しめた。やがてわしは、あのときに見たのは、御仏の光であったことに気が付いた。あれこそ我が身を捨てて、真に他の幸せを願う慈悲の光じゃ。女の放った力は、欲にくらんだわしが、どうこう出来る代物ではなかったのだ。そしてわしは考えた。もし神童と呼ばれ、ひたむきに修行していた頃のわしだったら、あの尊い光に出会って何を見たであろうかと。
「この時始めて、わしは己の生き様を悔いた。冒した罪の恐ろしさを知って、身の震えが収まらなかった。 子供だましの修法で慈悲を施しておったつもりが、何ともあさましき話じゃ。わしはいつしか、単なる金の亡者に成り下がっておった。かつては生き神とも神童とも呼ばれたこのわしがじゃ! 知らず知らず、たとえ立派な衣を身につけようと、貧しいなりの女に、足下にも及ばぬ つまらぬ人間になってしまっておったのじゃ!
「これに気付いたわしは、その後全く修法を行うことが出来なくなってしまった。どのような加持祈祷を行おうと、神にも仏にも届かぬ 様になってしまっておったのだ。いや! そもそも、とっくにそうであったのかもしれぬ。そのことにわし自ら気付いておらぬ だけでな。ともかくも、はっきり言えることがひとつだけあった。わしはただの、無力で無能な男になってしまったのじゃ! その後は、自分の生きる術を求めて方々を旅して歩いた。この時ほど、中途半端に修行半ばで師のもとを離れた事を心底悔いたことはない。されどこの時既に、我が師はこの世を去っておったのじゃ。全国、北から南へとずいぶん歩いた。しかし、どこへ行っても心の隙間を埋めるものは見いだせなかった。あれほどこだわっていた金銭は結局、心を満たすことは一度も無かったのう。
「それでわしは結局、それまで貯めた金銭をすべて投げ打ち、仏門に入ることにした。俗世を離れ仏法の元で再度、修行をやりなおすことに決めたのじゃ。その後は、これまでに無いほど真剣に修行をした。それも、あえて厳しい修行を次々と行った。それがかつて金と欲にまみれ、邪な修法を為した我が身の罪滅ぼしと思えたのじゃ。あの時は、そうせざるを得なかったのじゃ。
「この修行の間も、女の放った金色の光のことが、片時も頭から離れた事は無かった。わしは出来れば、もう一度あの光に会いたいと思っておった。さすれば罪も許され、かつての霊力も蘇る様な気がしたのじゃ。しかし時折、尊い仏像にその片鱗を見ることはあったが、それは全て古(いにしえ)の祈りの名残に過ぎなかった。その後二度と、あの光に出会うことはなかったのじゃ」
老僧はここまで話すと、大きくため息をつきました。そして、すっかり冷めてしまったお茶を、口に含みました。これを見たゆきえは、ふと我に返りました。
「お茶を入れ直してまいりましょう。」
立ちかけたところを老僧は制しましたが、ゆきえは台所に行き、再びお茶を入れ替えて戻りました。そして若い僧にも、お茶を入れ替えてあげました。そしてこのとき、ようやく気づきました。ひょっとしてお坊様達は、お昼ご飯も食べずにここまで来たのかもしれません。ゆきえは再び台所に戻ると、ぼた餅(おはぎ)と高菜の漬け物を出しました。そして人数分のお膳に取り分けて、お箸を添えて僧侶に差し出しました。
「どうかつまらぬ物ですが、お召し上がり下さい」
老僧は、これに大層喜んだようでした。
「おう、これはうまそうだ!
「せっかくだから、いただこうではないか、皆もいただきなさい。」
これに若い二人の僧は、ゆきえに合掌して、ぼた餅に手を付けました。ゆきえも畳に手をついて、お辞儀を返しました。ゆきえが仏間に戻ると、老僧は既に、旨そうにほおばっていました。その様子を見ると思った通り、お坊様達はお昼抜きでここまでやって来たに違いありません。おいしそうにぼた餅をほおばるのを見ていると、ゆきえも嬉しくなりました。
しばし、無言で和やかな時間が過ぎてゆきます。裏山で、遠く遠くブッポウソウの鳴く声が、長く尾を引いて消えてゆきました。 ときおり心地よい風が、若葉の香りを乗せて、ゆきえ達のいる仏間を吹き抜けてゆきます。線香の煙が、青白い糸を引いて、部屋の外へと流れてゆきました。風が吹き抜けるたびに、仏壇のろうそくがゆらゆらと揺れて、その度に観音様の表情が微妙に変わります。ゆきえにはふと、小さな観音様が笑ったように見えました。
老僧は、二つ目のぼた餅を平らげた後、高菜の漬け物をぽりぽりと噛みながらお茶を美味しそうにすすりました。これにゆきえが尋ねました。
「まだぼた餅はありますが、お召し上がりになりますか?」
老僧は、首を横に振りました。
「いやいや、もう満腹じゃ。ゆきえどの、実に美味であった」
「もう少し、まともなお食事が用意出来れば良かったのですが」
「なんの! わしにしてみれば、まことに贅沢なご馳走であったよ」
老僧が合掌するので、恐縮して頭を下げました。そして若いお坊様をふりかえりました。
「お若い皆様は、どうかご遠慮なさらずに」
しかし、若い二人の僧達も首を横に振って、無言で合掌しました。すると老僧が、ゆっくりと湯飲みを茶托に置くと、軽く咳払いしましたました。
「どこまで話したかの? おお、そうじゃ。修行の話しじゃった」
これにゆきえも、老僧の横で居住まいを正しました。
老僧はまた少し咳払いをすると、おもむろに話を続けました。
「さて何時しか、長いときが過ぎたように思う。わしはやがて、高野の千日回峰(せんにちかいほう)の修行に入っておった。それもつい先月のことじゃ。その修行もようやく終わりにさしかかっておったころじゃ。あの日も終日お堂に籠もり、懸命に経文を唱えておった。長期に渡る不眠不休の修行故、この頃と言えば全く意識も朦朧としておった。
「それまでも、わしは長年の無理な修行がたたって、相当に体を悪くしておった。じゃから多くの者が、わしが千日の修行をおこなうことを懸念しておったのじゃ。わしはうすうすと、この千日の修行で、わしの寿命が尽きるやも知れぬと言う覚悟があった。わしはそれで良いと思っておったのだ。そしてその覚悟の通り、この修行の終わり頃には、わしの命の炎もしばしば消え入ろうとしていたのじゃ。
「さてその夜のこと、何者かがお堂の外に訪ねて来た。この修行中は何者にも会ってはならぬ 事になっておったので、わしはそのまま読経を続けておった。やがてお堂の外にやって来た者は、断りもなく戸を開けて中に入って来るようである。わしはそれでも、素知らぬ ふりをして読経を続けた。ところがその者は勝手に後ろに座り、読経を聞く様子じゃ。
「この様子に内心、いささか無礼な奴じゃとあきれた。されど、修行の妨げをせぬのなら構わぬとそのまま無視しておったのじゃ。ところがやがて、そうも言っておれなくなった。なんとわしの読経につれ、後ろから金色の光が射してくるではないか!
「これに当初、ついにお迎えが来たかと驚いた。じゃが、何やら物の怪の悪さもあるかも知れぬ。よって、全く素知らぬふりをして読経を続けておったのじゃ。しかし金色の光は益々広がり、まさにお堂全体を包み込もうとしておった。しかもこの光には、陶然とする芳香があった。それが何とも不思議なことに、桜の香りであることに気づいたのじゃ。
「金色の光は、桜の糖蜜がごとくであった。光が満ちるとやがて、例えようもなき感動が沸き上がって来た。いつしかわしは、金色の世界のただ中に浮かんでおった。しかもいずこからとなく、うすく藍色の影を帯びた桜吹雪が、辺り一面にはらはらと降り注いでおるではないか!
「わしはまさしく、はかなき世界と無限の世界との境目に居たのじゃ。なんと美しく、なんともの悲しく、そしてなんと平安で、かつ、なんと物狂おしい世界であったことか! 危うく正気を失うかと思った。あの感動を今も忘れはせぬ! あれは、底知れぬ悲しみであった! そしてまた、無上の喜びでもあった!
「あれはのう、まさしく何にも代え難い仏の慈悲じゃ。これこそ、長年わしが求めてきた光であり、彼岸の世界だったのだ! わしはその時、何時しか涙を流しておった。歓喜の涙にむせて、最早読経も出来ぬ ありさまであった。もはや、後ろに誰が座っておるのか、確かめたくて仕方がなかった。それで遂にたまりかねて、修行の禁を犯し、後ろを振り返ったのじゃ!」
そこでふっと、老僧は言葉を止めました。老僧は仏壇に向かい、観音様のお姿を見つめております。ゆきえは黙ってその横顔を見つめておりましたが、やがて老僧はゆっくりとゆきえを振り返りました。そして静かに、微笑みました。
「さても後ろに座りしは、おぬしの母君、はつえ殿じゃった!」
意外な言葉にゆきえは驚きました。そして次々にわき起こる様々な想いに、すっかり混乱してしまいました。思わず仏壇を振り返ると、ゆらゆらと揺れるろうそくの光の中で、観音様がまた、ゆきえに笑いかけたように見えました。
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