もっと「ララバイ」

ちょっと意外な子守歌の世界


<子守歌の向こうに見えてくる、歴史的背景>

 「ララバイ(lullaby)」とは、子守歌のこと。では子守歌と聞いて、一般的にどんな曲をイメージするでしょう?  「ねんねんころりよ〜」という、昔からの日本の子守歌でしょうか? それとも「ねむれ〜、ねむれ〜、ははのむね〜に」という、西洋の子守歌でしょうか? あるいは家族だけに歌われてきた特別な歌でしょうか?  いずれにしても、一般的に子守歌と言えば、母が我が子を思い、安らかに育つことを願って 優しく歌われる曲を想像します。でも子守歌について調べてみると、意外な事実が見えて来ます。
子守歌に、どんな種類があるのかを調べてみると、結構いろいろあるようです。まず一般的に誰でも考えるのが、子供を寝かしつけるときに歌う「寝かせ歌」があります。この他にも、子供を遊ばせるときに歌う「遊ばせ歌」も含まれるようです。

 ところで同じ子守歌でも、日本の子守歌と西洋の子守歌では、ずいぶんと雰囲気が違います。西洋の子守歌が何となくおしゃれで裕福なイメージがあるのに対して、日本の子守歌は、はっきり言って暗い感じがします。西洋の子守歌がおしゃなのは、ブラームスにしてもシューベルトにしても、裕福なクライアント(依頼主)の要請によって作曲されたことに原因があるようです。それともう一つ、西洋の子守歌の背景には、キリスト教の影響もあります。西洋の人々は、赤ちゃんを抱く母親の姿に、聖母子(聖母マリアと幼いキリスト)の姿を重ねて見ています。それ故に子供をあやす母親の姿は、清らかで安らかに、そして優雅にと、どんどん美化される傾向があるようです。
 それから、日本の伝統的な子守歌が2拍子なのに対して、西洋の子守歌は3拍子です。このことからも西洋の子守歌は、優雅に感じるのかもしれません。何故、西洋の子守歌が3拍子で、日本の子守歌が2拍子なのか、専門家でもいろんな説があるようです。キリスト教の「三位一体説」から、三拍子になったという説もあります。

 でも一番有力なのは、赤ちゃんをあやす時のスタイルの違いが、リズムの違いとして現れたという説です。西洋では、よくクレードル(ゆりかご)に赤ちゃんを寝かします。でもクレードルに寝かせるまで母親は、腕に赤ちゃんを抱いてあやします。この、腕の中で赤ちゃんをあやすときのスタイルには、3拍子の子守歌がちょうどあっているというのです。なるほどワルツを踊るように、腕の中の赤ちゃんを左右にゆっくり揺らすのをイメージすると分かりやすいです。
 一方、日本の伝統的な子守スタイルと言えば、背中に赤ちゃんを背負うおんぶ。この状態で赤ちゃんをあやすとき、両足で交互に上下に体を揺することになります。従って、どうしても2拍子になるというのです。背中に赤ちゃんを負うスタイルは、昔の日本女性達の、過酷な育児環境を想像させます。そこに見えてくるのは、育児の最中でさえ、何らかの労働を担わなければならなかった母達の姿です。背中に子供を背負いながら、その両手は作業をしていることがほとんででした。その場合子守歌は同時に、労働歌でもあったわけです。そうなると、ゆっくりした2拍子の方が都合が良かったと考えられます。


<最近あまり歌われなくなった、子守歌>

 ところで最近、子守歌が歌われなくなったらしいです。若いお母さんが子供を寝かしつけるとき、子守歌を歌わなくなったと言うのです。 何故でしょう?
その原因はいろいろあるようですが、おおざっぱに言えば、子育てのスタイルと母親の音楽の好みが変わった事に起因すると言われます。昔ながらの、子供を背中に背負う日本独自の子守スタイルは、昔の母親達が、幼子を抱えているときですら、労働から解放されなかった事を意味しています。しかし現代はほとんどの女性が、過酷な育児環境と無縁になりました。それに何と言っても、家事のスタイルは大きく変わりました。炊事、洗濯、掃除といった家事の負担を軽減する電化製品は、今やどこの家庭でも普及しています。 その上どんどん核家族化して、若い嫁が大家族の中、重労働を負わされると言う話も滅多に聞かなくなりました。
 それに伴い、背中に赤ちゃんを負う育児スタイルはめっきり見なくなりました。最近は赤ちゃんと顔を見合わせる方が良いという観点から、胸元に袋状のだっこ紐をぶら下げたお母さんが多くなりました。肩こり防止や装着の利便性を考えたお洒落なものもあるようです。

 でも子育ての大変さは、昔も今も変わらないはずです。むしろ子供の教育や健康の問題、母親の育児ノイローゼと言った、現代ならではの悩みが増えています。 ですから現代女性が抱える育児の問題は、どちらかと言えばメンタルな面 が問題視されるようになりました。そうなると、昔の子育ての暗いイメージはますます嫌われ、日本の子守歌が歌われなくなったらしいのです。そもそも若い人達が演歌を聞かなくなったように、いわゆるマイナー系の和旋律は好まれない傾向にあります。

 では、母親が子守歌を歌わなくなったのかと言えば、そんなことはありません。童謡や幼稚園で歌われる歌などを、かわりに歌っているようです。あとTVの影響もあります。例えば、幼児番組で子供が好む曲、またアニメソングも歌われているようです。こうした点を見ると、日本人の精神構造が、近年急激に変わりつつあるようです。


<子守歌、それはルサンチマンの歌>

 ところで日本の子守歌には、「守子歌(もりこうた)」と言うジャンルもあるそうです。
守子(もりこ)」とは、赤ちゃんの面倒を見る子供達の事を言います。 ただしそう呼ばれる子供達は、赤ちゃんの兄弟姉妹や親戚 ではありません。貧しい農家から口減らしのため、他家に引き取られてきた子供達なのです。その大部分がまだ幼い女の子で、ほとんど人身売買でした。
 今でさえ農家では、特に農繁期は、家族総出で作業に当たります。現代の様に機械化された農業と違い、全て手作業だった昔の農業は大変でした。 子供を産んだばかりの母親であっても、家事のみならず、仕事は数限りなくありました。特に農繁期は、乳飲み子だけに関わっていられなかったのです。そこで経済的に余裕のある農家では、少しでも労力を補うため、安価な労働力であった子供をお金で買い取っていました。子供と言えど昔の農村では立派な労働力でした。こうしたことから、非力な女の子が嫌われる傾向にあり、真っ先に口減らしの対象となりました。可哀想な話ですが、江戸時代後期から昭和の中頃まで、しばしばこのような事が農村では行われていました。

 僕は日本の子守歌が、何故あんなに悲しげなのか、子供ながらに痛々しく思ったことが何度もあります。ただ子供の時は、その歌の意味するところが理解できませんでした。九州では有名な「五木の子守歌」でも、何故「盆から先きゃ、おらん」のか不思議でした。そうしたことも、実はこの歌が守子歌だったと分かれば、その意味も理解出来ます。つまりこの歌を歌った守子が、お盆になればやっと解放されて故郷に帰れると言っていたのです。昔の日本には藪入りという風習がありました。盆と正月、年に二回の休暇のことです。このときばかりは、丁稚奉公や豪農で下働きしていた子供達も、土産を持たされて帰郷出来ました。それは苦しい生活の子供達にとって、この上ない楽しみでした。
しかし、当時の農村の事情を知れば「五木の子守歌」守子が、本当にお盆に帰郷出来たか疑問に感じます。何故なら売られてきた子供達は、しばしば「すぐに親許に帰してやるから」と、だまされて連れて来られたケースも少なくなかったのです。

 同様に、過酷な労働に故郷を懐かしむ心境を歌った子守歌に「竹田の子守歌」があります。
「守りもいやがる盆からさきにゃ、 雪もちらつくし子も泣くし」……この歌詞は、ある年齢から上の世代にはとても懐かしいでしょう。70年代、赤い鳥が歌ってヒットしました。
 ところで「五木の子守歌」に出てくる、「おどま勧進、勧進〜」の勧進という歌詞の意味は、乞食という意味ですが、最近は韓人では無いかという説があるそうです。つまり被差別民だった朝鮮人が、この歌を通して自分たちのつらい身の上を語っていたという説です。九州各地には、秀吉の朝鮮出兵によって虜囚となった朝鮮人が数多くいました。また近年は隆盛を誇った石炭産業を支えるため、多くの炭鉱労働者が朝鮮半島から強制連行されました。
 同じ九州の「島原の子守歌」には、からゆきさんの事が歌われているそうです。からゆきさんとは、異国に身売りされてゆく女性達のことです。このような女性達は、中国や東南アジアでの人身売買の対象となり、ほとんど帰ってくることはありませんでした。

 そうしたことを考えれば、子守歌はある意味、ルサンチマンの歌と言えます。
ルサンチマンとは、社会的に抑圧された人々の、抑圧者への怨念あるいは、貧しい人々の裕福な人に対する恨みといった意味です。

参考:上記の、日本の子守歌の歌詞について詳しくは、ここをクリック 


<子守歌に託されたメッセージ>

 何だか、ずいぶんと暗い話になってしまいました。でも日本の子守歌には、こうした悲惨な背景を歌った歌詞が少なくないのです。ですからもっと詳しく見て行くと、驚くことに、こんな事も分かってきます。それは、赤ちゃんをいとおしく思って歌われるはずの子守歌に、しばしば見られる憎しみの感情です。「中国地方の子守歌」には、こんな歌詞があります。
「ねんねこしゃっしゃりませ〜、寝た子のかわいさ、起きて泣く子の面憎さ〜」
子供の時、この歌詞を始めて見た僕は、「寝た子のかわいさ」は分かるけど「起きて泣く子の面 憎さ」は、ずいぶんとひどい事を言うと思いました。しかし歌っていたのが、幼い守子達だったと考えると、なんとなく理解できます。きっとそれは重労働だったに違いありません。泣きわめく子供を守子達は、どう扱って良いのかも分からず、自分も泣きながらあやしていたでしょう。何時までも言うことを聞かない赤ん坊は、本当に「面憎く」思えたことでしょう。「竹田の子守歌」にも、こんな歌詞があります。 「この子よう泣く守をばいじる、守も一日やせるやら」

 中にはもっと過激に「何時までも泣きやまないなら、いっそ切り刻んでやる」といった歌詞もあるようです。こうなると、ほとんど脅しです。赤ちゃんにとって守子歌は、もはや嫌がらせのように思えます。そもそもこんな歌を歌って、教育的悪影響は無かったのでしょうか?
僕はむしろ、こうした悲惨な状況を繰り返し歌うことで、昔の子供達は大切な事を学んでいたと思うのです。子守歌が伝えようとしたメッセージ……それは命の重さです。自分の命が、他人の命の犠牲によって支えられていることを、子守歌を通 して、昔の子供達は学んでいたと思うのです。それは机上の学問では、決して得られません。命の重さを論理で理解することは出来ません。命の価値は、個々の体験を通して知る必要があるからです。いったん命の重さを体験した子供達は、本当の思いやりを忘れることは無いでしょう。この事は、現代の教育にもっとも欠けていることです。

 母親達が日本の子守歌を歌わなくなったのは、時代の趨勢として仕方ないかも知れません。
しかし、和旋律のマイナーなメロディに乗せて伝えようとしたメッセージを聞かなくなることは、ある意味、日本人がその血の中に受け継いできた大切な何かを失いつつあると思うのです。

2003年5月20日:記 
2008年7月 8日:修正


さて昔から、母親と子供との間には言語を越えた繋がりがあると言われています。こうした母親との関係はそのまま、子供の生涯の人間関係を決定づけると言われています。「ララバイ」と言う作品から、不思議な母親と子供の絆をにまつわる、あるお話を思い出しました。そのお話は、以後の「もっともっとララバイ」で。


<この項、終わり>


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